義経 元服の地

鏡神社

滋賀県竜王町に鏡という土地があります。東山道(中山道)の宿場があったところでした。今は幹線道路で車やトラックが行きかう所となりました。

源義経が奥州の金売り吉次の手引きで鞍馬を抜け出し奥州平泉を目指します。鏡では白木屋という長者「沢弥傳(さわやでん)」の屋敷に泊まっていた所に知らせが届き、稚児姿(寺院で召し使われた少年の姿)の牛若丸を探していることが分かります。

そこで偽装するために急ぎ元服することにしました。源氏の左折れの烏帽子を作り、前髪を落とし元結(もとゆい)の侍姿となります。この時の場所が源義経の元服池として鏡神社の近くにあります。この時から源九郎義経と名乗ることになります。

源氏の再興と武運長久を祈願したのが鏡神社となります。願いがかなったパワースポットですなあ。

前田城(安濃)

前田城

安濃城塞群の一つである前田城

南へ張り出した小山に築かれています。基本は単郭ですが、土塁が巡り虎口もありました。

城主は前田将監と伝わっていますが詳しいことはよく分かっていません。前田氏は長野氏の一族である草生氏の旗本だったようで、近くには草生城があります。藤堂藩の時代には庄屋となり藩主が鷹狩りをする時の休憩所として使われたとも伝わっています。

安濃には伽耶出身の大市氏と縁がある大市神社があり、また村主(すぐり)という地名も残っています。村主は古代の姓(かばね)の一つで、応神天皇の時代に阿知使主とともに日本に帰化した漢人が祖となります。安濃はもともと渡来人と関係が土地だったんですね。

2つある大市神社

大市神社

実家のすぐ近くにあるのが津市岩田の大市神社。小さな頃はお神輿を担いだ思い出もあります。

岩田の大市神社のずっと西側にある安濃にも大市神社があります。岩田の大市神社は郷社ですが安濃の大市神社は式内社になっています。昔、安濃の大市神社にあった大松が洪水で流れ、下流の岩田川で拾い上げられたことから、この松が縁で岩田の大市神社ができたという話があります。神社が流れて松に引っかかったという話もあります。岩田の大市神社は江戸時代の古地図にも載っていて、現在と同じ場所に川松社という名前でありました。川で拾った松という意味ですかねえ。

大市神社の主祭神はオオイチヒメノミコト(大市比売命)ですが、この大市という名前はもともと大和朝廷発祥の地である巻向にあったようです。伽耶出身の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)で敦賀(つるが)の語源となった人がいます。日本書紀や古事記にも登場する、超有名人物です。このツヌガアラシトの後継が「新撰姓氏録」に載っていて、大市首が後継です。ですので大市氏は本来、巻向あたりにいたようですが、この大市氏の一部かどうか分かりませんが、なんで安濃に来たのかは分かりません。

金ケ原城(菰野)

金ケ原城(菰野)

菰野にある千草城近くの高台に千草神社があり、ここが金ケ原城跡。

けっこう大きな神社の周りを土塁が巡っています。近鉄四日市駅のすぐ近くにある浜田城のような雰囲気ですが、敷地はかなり広いですね。南側は土塁の向こう側が窪地になっていて空堀らしきものがありました。

金ケ原城に関する歴史は伝わっていませんが千草城の出城ではないかと言われています。城のすぐ近くを小川が流れており、ここから急な丘になっていますので、この小川が北側の堀替わりだったのでしょう。

事務職が半分になる!? RPAの波がすぐそこに

「AIによって仕事がなくなる」と言われていますが、ホワイトカラーにとってはAIよりもRPA(ロボティック・プロセス・オートメーション)の略)の影響の方が大きく、これから単純作業が目の前から消えていきます。

ロボティックとはロボットのことで、ロボットと言ってもハードのロボットではなくソフトウェアのロボットのことを指し、事務用ロボとも呼ばれています。

All About「企業のIT活用」最新ガイド記事です。

→ 事務職が半分になる!? RPAの波がすぐそこに

LEC 経営情報システム

LEC

日曜日にずっと梅田LECで経営情報システムの講座を担当していましたが、本日ですべて終了。終わった!終わった!

経営情報システムといえばSCM、CSR、ERP、MIS、ARP、TCP、UDPなどなど3文字のオンパレード!

「先生、これ全部覚えないといけないんですか?」
「試験に出るので大変ですけど覚えてくださいね。」

毎年の風物詩ですねえ。

さて梅田界隈はインバウンドの影響もあり中国語、ハングル、タイ語、インドネシア語が飛び交っております。最近、道を聞かれるのは外国人ばかり(笑)。

今日、谷町線に乗ると東欧系シニアの一団が乗っておりました。どうもロシア語でもなさそうで、何語なのかなあ。早く、手軽な同時翻訳機が出ないかなあ。そういえば、昨日はITC維新会でAIスピーカー「アレクサ」のデモを見せてもらいましたが、まだまだですねえ。

グランフロント大阪

昨日はITC維新会の勉強会があり久しぶりに参加してきました。

会場がグランフラント大阪という梅田の北側に開発された複合商業施設です。時間があったのでヨドバシカメラに寄ってからグランフロントへ。以前はヨドバシカメラから大阪駅やグランフロントへ行くのが大変でしたが、渡り廊下ができていました。便利になりましたね。

■グランフロント大阪
土曜ということもあり観光客などでごった返しているグランフロントですが、オフィス棟に入るところが分からない(笑)。

受付で聞いたら中国系のようでしたが日本語でオフィス棟の入口を教えてくれました。オフィス棟エリアに入ると、さっきまでの喧騒はなんだったのと、いうぐらい静かな場所。まずは9階にあがって、上層階へ行くエレベータに乗り換えます。この上層階へ行くエレベータがまたまたオシャレで、上へ行くボタンがない。

最近のエレベータは画像認識して動作させているのかなと待っていても、エレベータが来ない。手を振っても認識しません。実は上へ行くボタンがあり、あまりにもオシャレなデザインにしているので気がつかない代物でした。別の参加メンバーも同じように探しまくったそうです。

早めに出たはずがエレベータで手間取って、オシャレな会議室にたどりついた頃にはスタート時間が過ぎていました(笑)。

終わってからは庶民的な「かっぽうぎ」で宴会。17~19時に60分飲み放題500円というのをやっていました。ただし一人2品頼まないといけないという縛りがあります。

南北朝時代の忠臣のお城 千草城

千草城

菰野にあるのが千草城

住宅街の中の丘の上にあるお城で、公園として整備されていて藪もなく、とても見やすい城になっています。東へ張り出した丘陵に千草城は築かれていて、東西二郭があり、虎口には空堀と土橋が残っています。特に見事なのが西へ続く尾根を断ち切った大空堀です。

■三木一草
千草城は南北朝時代に千種顕経によって築かれたと伝わっています。千種忠顕という後醍醐天皇に仕えた公家がいて、後醍醐天皇が隠岐に流された時にもついていきました。後醍醐天皇と共に隠岐を脱出し、伯耆の名和長年を頼り、船上山で挙兵をします。

これが鎌倉幕府の討幕へと進んでいきます。足利尊氏とともに六波羅攻めにも加わっています。南北朝に分かれてからは南朝方で戦い討死しています。千種忠顕は楠木正成、名和長年、結城親光と共に、「三木一草」と称されています。

■千草城
三重郡を領していた時は禅林寺城を居城としていましたが、子供の顕経の時に千種城を築いて禅林寺城から移ったようです。数代たった千草顕季の時には北伊勢四十八家の棟梁として一千騎を率いていたと言われています。

最後の千草氏は千草顕理で織田信雄、秀吉、秀頼に仕え、大坂夏の陣で討死し千草氏が滅び、この時に千種城も廃城になったようです。

菰野城

菰野城

四日市の西側(山側)にあるのが菰野。御在所岳の麓で江戸時代は菰野藩がおかれていました。

菰野城は平城で陣屋形式です。堀と角櫓がありました。明治の廃藩置県で廃城となり、跡地には菰野小学校となっています。校庭の一部に堀跡と土塁跡が残っていますが、往時をしのぶものは何もありません。もともとは織田信長が伊勢を平定した後、北勢を納めたのが滝川一益で、このあたりの郡を収めるのため菰野に代官所が置かれました。

菰野藩をおさめたが土方氏で藩祖は土方雄氏という人物。織田信雄、豊臣秀吉に仕え、大坂の役では徳川方の先陣として活躍しました。江戸時代を通じ、ずっと土方氏が領主を勤めました。

松尾神社(山城国一揆の舞台)

松尾神社

上狛にあるのが松尾神社。小高い丘を登ったところにあります。

■山城国一揆の舞台
この松尾神社が山城国一揆の舞台となりました。一揆と聞くと年貢減免のため百姓一揆するイメージがありますが、中世では荘園領主の政治力や軍事力に対抗するために国人(武士)や百姓が結束して対抗したことをいい、いわば共和国です。スターウォーズみたいですな~あ。

織田信長が伊賀に攻め込んだ天正伊賀の乱は織田信長と伊賀惣国一揆との戦いでした。加賀では守護を倒して本願寺門徒が国を治めていましたが、これが加賀一向一揆です。こちらも織田信長に攻められました。こうなると織田信長は帝国軍ですねえ。

南山城(京都の南部)では守護大名畠山氏に対抗するために山城国一揆が成立します。国中掟法が制定され、「三十六人衆」と呼ばれる国人衆によって政治が行われることになります。まさに共和国で、この国人の一人が狛氏でした。一揆に参加した国人達が結盟を行った場所がこの松尾神社と伝承されています。

内部対立もあり8年間の自治のあと山城国一揆は崩壊しました。

■かって関西電子共和国(VRK)がありました。
1995年4月1日に本当に建国されたのが関西電子共和国。ただしインターネットのなかでの壮大な社会実験でした。

当時、友人との間で
「今晩、飲みにいかない?」
「ごめん、今日は共和国の会議があるんだ。」
という“ジェダイの騎士”のような会話が行われていました。

こちらの共和国もなくなってしまいましたが、顛末について知りたい方は

→ 「バグは本当に虫だった」(ペンコム)をぜひ、どうぞ、第4章です!