カテゴリー別アーカイブ: 奈良の話題

稗田阿礼

賣太神社

大和郡山の近くに稗田(ひえだ)という集落があります。稗田と聞けば出てくるのは稗田阿礼です。記憶力がすごい人物で帝紀、旧辞を暗記し、太安万侶が稗田阿礼のしゃべる内容をまとめたのが古事記と言われています。

古事記は神代における天地の始まりから推古天皇の時代に至るまでの様々な出来事を記した書物です。江戸時代となり松阪在住の本居宣長が35歳頃から35年をかけて書いたのが「古事記伝」。古事記の注釈書で全44巻でした。

太安万侶については1979年に奈良市の茶畑から墓誌が発見され墓が特定され考古学上の大発見となりました。問題は稗田阿礼で、古事記の序文以外には、まったく登場しません。なかには実在を疑う声もあります。稗田氏はアメノウズメを始祖とする猿女君と同族と言われていることから女性説もあります。

写真は稗田阿礼が主祭神の賣太神社(めたじんじゃ)。

長谷寺 二本の杉

長谷寺

高束城跡から石畳の道をずっと下ると初瀬ダムがあります。ここから初瀬川となり、やがて大和川になって大阪湾へ至ります。

初瀬ダムから初瀬川沿いに下っていくと牡丹で有名な花の御寺である長谷寺があります。ふつうは近鉄の長谷寺駅から行くのですが、山側から行くのも、なかかなオススメです。長谷寺に着き、境内入口で待っているのが399段の登廊です。

長谷寺の創建は奈良時代で、平安時代には貴族の信仰を集め、枕草子、源氏物語などにも登場します。登回廊の途中から藤原定家塚へ行く道があり、途中にあるのが二本(ふたもと)の杉で、この杉は源氏物語の第22帖「玉鬘(夕顔の娘の名前)」で登場します。

長谷寺の御利益を頼みに参詣の旅に出た玉鬘が、夕顔(母親)の女房である右近と再会するのが二本の杉で、根元から二本に別れています。再会がかなう霊木とされており現在もあります。早い話がパワースポットの一つなんですが、全然知られていないようで観光客は誰もいません(笑)。再会で縁結びじゃないからかな~あ。

薬師寺

薬師寺

昨日は西ノ京で仕事だったので久しぶりに薬師寺へ寄ってきました。

奥さんの実家が西ノ京なので、西ノ京自体へはよく行っているんですが薬師寺や唐招提寺はさっぱりですね。大阪人が身近な通天閣に登らないのと同じです。もっとも高所恐怖症という話もあります。

フェノロサが”凍れる音楽”と絶賛した東塔は解体修理中で、平成32年6月頃に修理完了予定です。その代わりに食堂が新しくなっていました。堂内には壁画「仏教伝来の道と薬師寺」があり、平城京までの大きな絵画が何枚も飾ってありました。

相撲の発祥

力士埴輪

相撲界が騒がしいですが、日本で相撲が始まったのは垂仁天皇の時代。大和八木駅から西ノ京駅へ向かう時、線路のすぐ右手に見える古墳が垂仁天皇陵です。

垂仁天皇の時代、当麻に当麻蹴速(たいまのけはや)という剛の者がいて俺に勝てる者はいないと言っているので、出雲の国に野見宿禰(のみのすくね)を呼び出し展覧試合が行われました。これが相撲の祖となります。相撲を取った場所は山の辺の道沿いにある穴師坐兵主神社です。

試合に勝ったのは野見宿禰で当麻蹴速の腰を踏み折って殺します。コロッセオの試合のようですね。その後、野見宿禰は垂仁天皇に仕えることになります。また、それまで行われていた殉死をやめ埴輪に替えることを提案し、野見宿禰は土師臣(はじのおみ)の祖となります。今の藤井寺市や道明寺が本拠地となり土師の里と呼ばれるようになります。

古墳時代には力士が定着したようで今城塚古墳では力士埴輪が見つかっています。織田信長も相撲が好きで勝者を家臣にしています。高杉晋作が組織した騎兵隊には力士隊があり伊藤博文が率いて功山寺の挙兵に参加しています。そういえば新選組が大坂で起こした乱闘事件の相手も力士でした。

奈良競馬場跡

奈良競馬場跡

「近鉄沿線ディープなふしぎ発見」に奈良競馬場跡が載っていました。

秋篠寺の近く、神功皇后陵のすぐ隣にみえるのが巨大な楕円形で、これが奈良競馬場跡です。1939年につくられた一周1600mの超巨大な競馬場でした。戦後、競輪ブームが起きるとパドック等に競輪場を開きます。1954年に競馬場は廃止となり、維持が簡単な競輪場のみとなったそうです。それで横に奈良競輪があるんですねえ。

大津皇子の墓(二上山)

大津皇子の墓(二上山)

二上山の雄岳頂上にあるのが大津皇子の墓。円墳になっていて里中満智子の「天上の虹」で有名です(笑)。

大津皇子は天武天皇と大田皇女の間に生まれた子供で、大田皇女は鸕野讃良皇女(のちの持統天皇)の姉でしたが、大津皇子が小さい頃に亡くなり、後ろ盾がありませんでした。そのため天武天皇と鸕野讃良皇女の息子である草壁皇子が皇太子となりますが、朝廷内には大津皇子を推す声も多かったようです。

天武天皇が亡くなると、大津皇子は謀反をたくらんだと捕えられ24歳の若さで殺されます。黒幕は我が子可愛さの鸕野讃良皇女のようで叔母さんに殺されちゃうんですね。ところが草壁皇子が早世してしまい、予定が狂ってしまいます。しょうがないので草壁王子の息子だった文武天皇を14歳の若さで即位させ、実権は持統天皇がにぎりました。これが院政のモデルとなります。

さて大津皇子の墓ですが麓にある鳥谷口古墳が実際の墓ではないかと言われています。姉の大来皇女の有名な歌「うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟と我が見む」とも矛盾しません。濡れ衣かもしれませんが謀反人の墓を都から見える二上山の上に造るのもどうかなという気がする。としたら誰の墓なんだろう。

現在まで名前が残った宮内省

宮内省

律令制度によって官僚制度が整い、8省が整備されました。他に神祇官(神祇祭祀を司る)、太政官(国政一般を司る)がありました。

中務省-天皇の公的な補佐 詔書の作成など政治に関わる
式部省-文部省
治部省-外務省&葬事・仏寺・雅楽
民部省-税務署
兵部省-軍隊
刑部省-裁判所
大蔵省
宮内省-天皇の私的な補佐

今でいう厚生労働省、農林水産省、経済産業省、国土交通省、環境省なんかはなかったんですね。民部省には主計寮と主税寮があり現在の財務省主税局、財務省主計局・主計官として名前が残っています。予算編成になるとよく名前を聞く役名です。

古代の省名で現在まで残っていたのが大蔵省と宮内省ですが大蔵省は財務省になってしまいましたので、残っているのは宮内庁だけです。

平城宮跡の宮内省は建物などが復元されています。ただ、ここが宮内省だとは確定はされておらず、おそらくという推定です。

平城天皇陵じゃない平城天皇陵

平城天皇陵

平城京跡にできた大極殿のすぐ北にあるのが平城天皇陵。「へいじょう」ではなく「へいぜい」です。

平安遷都した桓武天皇の息子で桓武天皇の後に即位しました。嵯峨天皇に皇位を譲って上皇となると、平城上皇は旧都である平城京に移り住みます。平城天皇は亡くなってからの追号で、平城京好きだったことからつけられました。

平城天皇陵は長い間、円墳と考えられていましたが実は前方後円墳。平城京を造る時に都のエリアに入る前方部をぶっ壊したことが判明します。続日本紀の和銅二年(709)の記事に古墳の話が出てきます。平城京の造営を管轄していた役所に対して、元明天皇が「古墳を破壊した場合には、祭祀を行って死者の魂を慰めること」という勅令を出したそうです。

平城京造営にあたっては、いくつかの古墳が破壊されたようで、現在の都市開発とこういったところは変わりませんなあ。さて平城天皇陵ですが、円墳ではなく前方後円墳でした。前方後円墳は欽明天皇陵あたりで終わっていますので時代があわず、平城天皇陵に葬られているのは平城天皇じゃなさそうです。

造酒司(平城京)

造酒司

平城京跡では今も発掘が続いていますが建物が、どの役所だったかを判明するのは至難の業。そんななか断定できるのが造酒司で、酒造りをしていた役所です。霞が関のど真ん中に造り酒屋があるようなもので、いいですね~え。さすがに立ち飲みはできなかったでしょうね。

甕につけられた木簡などが見つかり造酒司と確定されました。なかには清酒という木簡もありますが、当時は今のような清酒はありませんのでドブロクの上澄みをすくったものでしょう。写真は造酒司で見つかった井戸跡です。

清酒は江戸時代となり酒造業をしていた鴻池の手代が叱責された腹いせに灰を投げ込んだことで、はじめてその製法が発見されたと言われています。

そうそう奈良には菩提もと造りがあります。平安時代頃に奈良菩提山・正暦寺で醸造された菩提泉というお酒がありました。この酒母が菩提もとで、これを復活し奈良の造り酒屋では、菩提もと造りとしてお酒を造っています。

地下の正倉院展

平城京

地下の正倉院展へ出かけてきました。

今年、平城京跡出土木簡が国宝に指定されたそうで、平城京跡資料館では「地下の正倉院展」として11/26(日)まで3期に分けて展示されています。

会場入口にあったのが下ツ道の溝から見つかった長い棒に書かれた木簡。平城京の朱雀大路はもともと飛鳥時代にあった下ツ道を拡張したもので下ツ道の溝から藤原京時代の木簡が発見されています。早い話がゴミです。

内容は手形(パスポート)で近江国蒲生郡で田作人(農業)をしていた伊刀古麻呂、大宅女の2人が藤原京へ戻る際に発給されたものです。かなり大きな木簡で40cm近くあります。行先は左京小治町で、どうも飛鳥の雷丘付近のようで、藤原京の一部です。近江から山城国を超えて大和へ入り、当時は平城京はありませんでしたが関所があったのでしょう。最後の関所を超えたので大きな木簡は邪魔と溝に捨てたと思われます。