カテゴリー別アーカイブ: 城・山城

菰野城

菰野城

四日市の西側(山側)にあるのが菰野。御在所岳の麓で江戸時代は菰野藩がおかれていました。

菰野城は平城で陣屋形式です。堀と角櫓がありました。明治の廃藩置県で廃城となり、跡地には菰野小学校となっています。校庭の一部に堀跡と土塁跡が残っていますが、往時をしのぶものは何もありません。もともとは織田信長が伊勢を平定した後、北勢を納めたのが滝川一益で、このあたりの郡を収めるのため菰野に代官所が置かれました。

菰野藩をおさめたが土方氏で藩祖は土方雄氏という人物。織田信雄、豊臣秀吉に仕え、大坂の役では徳川方の先陣として活躍しました。江戸時代を通じ、ずっと土方氏が領主を勤めました。

狛城(上狛環濠)

上狛環濠

上狛駅の西側に拡がるのが上狛環濠で村を取り囲むような環濠が見事に残っていて中心部にあったのが狛氏の居城だった狛城ですが、現在は遺構がなくなっています。城を中心に集落を取り込んで要塞化していました。集落は少し高台になっています。

狛氏は興福寺領の下司でした。ゲスの極みの下衆(ゲス)とは違います。下司とは荘園を現地で管理していた下級職員を指す言葉で、任命されていたのは現地の有力国人でした。狛氏は山城国一揆では三十六人衆に名を連ねる有力国人で、もともとは渡来系でした。

狛氏は、応仁・文明の乱では細川氏の被官として東軍に属していましたが、狛城は南山城に侵攻してきた西軍の畠山義就方に攻め落とされ、畠山方がこの狛城を本拠地にしたようです。ですので狛氏が詰城として鳶ケ城を備えたんでしょうね。

鳶ケ城(恭仁京跡を見下ろせる山城)

鳶ケ城

東山城(高之林城)に行ったついでに鳶ケ城へ。

ネットで調べるとJR上狛駅から行けるところに鳶ケ城があるような雰囲気だったので、信じてまずは神童寺へ。まずこの神童寺まで行くのが遠い。神童寺から天神社へ向かう手前に小さなお堂があり、ここから山道に入ることができます。尾根まで乗り上げると「鳶ケ城→」という手製の矢印があったので、その方向へひたすら山道を歩きます。これが遠い!

所々に「←神童寺 海住山寺→」の案内があり、案内に従っていくつもの尾根や山を越えていきます。いい加減、疲れた頃に鳶ケ城という案内が出てきます。主郭へ登ると眺めは抜群。それはよいのですが目の前に見えているのは、どう見てもJR加茂駅と木津川。というと足元に見えるのは恭仁京跡!!

けっこう歩いたなと思ったら加茂までたどりついていました。鳶ケ城は狛氏の詰城でしたが、木津から伊賀上野へ抜ける街道をおさえるのが目的だったのでしょう。帰りもひたすら歩いて戻ってきました。

東山城(高之林城)

東山城

先日、京都府の文化財保護課のサイトを見ていたら山城地域の中世城館が掲載されていました。縄張図も載っていて、木津の近くにあるのが東山城。木津の山城といえば鹿背山城という大きな山城があり、もちろん行ったことがありますが、鹿背山城に匹敵する大きな城で4つの尾根に拡がっています。

こんな大きな山城が木津に残っていたんだ~あ。と、さっそく調査を開始。問題は城までの道で、探すと2つのサイトに情報が掲載されていましたが、最初はたどりつけなくリベンジした等、けっこう分かりにくい所にありそうです。

東山城への道順はJR上狛駅を降りて、山城ぬくもりの里を目指します。この施設の裏側に東山城への案内板があり、そこからコンクリート舗装された小道に入り、基本的に道なりに進んでいきます。2ケ所ほど案内板がありました。

山道を進むと所々に分かれ道がありますが、メインらしき道を選んでいけば切り通しに出られますが、半分以上は勘にまかせるしかないですね。。切り通しを抜け尾根道を進むと右にカーブしています。ここに、すぐに左に入る小さな山道があります。ここを進むと東山城の主郭に到達します。

東山城は主郭から分かれた2つの尾根に郭が連なり、全部で13ほどの郭があります。主郭近くには井戸跡のような窪みもありました。この地を支配した狛氏が関わっているとみられ、文献に登場する高之林城ではと考えられています。山城国一揆に関連する城のようです。

如意岳城 大文字山の頂上にある城

如意岳城

そうだ、京都、行こう。

銀閣寺の背後にあるのが大文字で有名な如意岳で、中尾城から尾根沿いの山道を30分ほど歩くとたどりつけます。中尾城からの山道を歩いている酔狂な人間はいませんが途中で銀閣寺の裏手から登る山道と合流すると、こちらはハイキング客で一杯。

如意岳頂上からは京都市街や山科が見渡せ、ハイカーのみなさん弁当などを食べていますが、ここが如意岳城の主郭跡です。城域はかなり広く頂上からいくつもの郭が広がっていて堀切や土橋もたくさんあります。三重堀切もあって見事ですねえ。

文献資料によると、古くは平清盛や源義朝時代の保元の乱でも如意岳は合戦場所となっています。この頃は本格的な山城じゃなかったでしょう。永正6年(1509)に三好長慶父子が如意岳城に立て籠もる中、細川氏、畠山氏、大内氏が攻撃していることが実隆公記、後法成寺尚通公記、拾芥記などに記載されています。

これ以外にも如意岳城を舞台にいろいろな合戦が行われ、京都ということもあり文献に記録されています。ほとんどの山城は記録がありませんが、文献でも確認できる貴重な山城跡になっています。

中尾城 銀閣寺の裏手にある山城

中尾城

そうだ、京都、行こう。

土曜日といえばブラタモリ。近江アナウンサーから林田アナウンサーに代わり、第一弾は銀閣寺です。ブラタモリでは絶対に出てきませんが観光客で一杯の銀閣寺の裏手に山城があります。Googleマップでもバッチリ出てきます。

観光客と人力車でごった返している銀閣寺山門から左(北)に入ると八神社があります。この八神社を右(東)に曲がると大文字山に登れる登山道が続いていて、この登山道にも、まあまあ観光客がいます。この登山道に入る寸前に左(北)に入る道らしきものがあり、当然ながら誰も歩いている人はいません。ここが中尾城への入口です。20分ほど、尾根道を登っていくと頂上につき、ここにあるのが中尾城の出城。

■中尾城の戦い
出城といってもだいぶ破壊が進んでいて、よく分かりません。ここから尾根沿いの道をひたすら登っていくと中尾城の本城に着きます。頂上にいくつもの郭があり、けっこう大きな城で、郭の遺構もよく残っています。城を造ったのは室町幕府・第12代将軍である足利義晴。三好長慶と争っていた時代で、足利義晴が亡くなってからは第13代将軍足利義輝(自ら刀で戦い殺された将軍)と細川晴元とタッグを組んでいました。

三好長慶は中尾城麓の聖護院・北白川・鹿ヶ谷・田中などを放火し、また近江にも進出したため、後方が脅かされると足利義輝は中尾城から撤退して近江・堅田へ逃げます。中尾城には三好軍が入り城は破却されます。この一連の騒動が日本史に出てくる”中尾城の戦い”で、舞台になった城です。

岸和田城 防潮石垣

岸和田城 防潮石垣

岸和田城のすぐ西側(海側)を走っているのが熊野街道。大坂と熊野(和歌山)を結ぶ街道で大坂ではマイドーム大阪のすぐ近くの中大江公園の横を熊野街道が走っています。この街道から少し海側に行ったところにあったのが防潮石垣です。

岡部氏が岸和田城城主になる前の松平時代にできた古い石垣です。海ははるか西側になりましたが、当時、もっと内陸部まで海でした。800メートルにもわたる石垣でしたが、明治維新後に大部分が破壊され、今は住宅街の中に9メートルほどが残っています。

岸和田城

岸和田城

桶狭間の合戦の時、今川側の最前線だったのが鳴海城。織田信長は鳴海城対策のため周囲に丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築きました。この時、鳴海城を守っていたのが今川家家臣だった岡部元信。

本貫は駿河国志太郡岡部郷です。桶狭間の合戦で今川義元が討ち取られても岡部元信の織田家と戦いを続けます。開城をうながすと主君・義元の首と引き換えならということで、織田信長も敵ながらあっぱれと思ったのか義元の首級を棺に納めて渡し、鳴海城は受け渡されました。帰りがけには刈谷城を攻撃し、織田方の水野信近を討ち取ったとも伝わる剛の者です。

岡部家は今川が滅んだ後は武田に仕え、武田が滅ぶと徳川家康に仕えました。江戸時代となり、この岡部一族が藩主として入ったのが岸和田城です。岡部家は13代、明治まで続きました。

高束城(宇陀)

高束城

春日宮天皇妃陵から鳥見山を経由して山道をひたすら歩くと高束山・山頂に城跡があります。登山道の途中に高束城についての案内板があるので、場所はすぐに分かるのですが城へ登る道がない。仕方ないので山裾をまわって一番下の郭から何とか入りました。実は反対側に虎口があり、帰りは簡単に登山道へ出ることができました。登山道に何の案内もないので、この入口を見つけるのはちょっと大変。

高束城は、高束山の1ケ所だけでなく、付近の尾根4ケ所に築かれた巨大な城になっています。縄張り図をもとに探したのですが、他の3つは結局、分からずじまいでした。

高束城を造ったのは長谷寺に関係した藤原家賢という人物で898年に造ったという記録が残っています。戦国時代には松永久秀の攻撃を受け1564年6月1日に落城し、城主だった藤原順賢も討死したと案内板に書いてありました。高束山をずっと降りていくと石畳の道などがあり、さらに降りると長谷寺に至ります。

春日宮天皇妃陵 ひょっとしたら山城跡?

春日宮天皇妃陵

奈良の榛原駅から鳥見山へ向かう途中にあるのが春日宮天皇妃陵。

春日宮天皇というのは天智天皇の王子だった志貴皇子のこと。里中満智子「天上の虹」にも登場します。権力闘争の宮中から離れ、歌人として文化的に生き、万葉集にも歌が採用されています。息子が光仁天皇となり孫が桓武天皇となります。自身は天皇になることはなく光仁天皇によって春日宮天皇の追尊をうけます。

志貴皇子の妃は何名かいるのですが春日宮天皇妃陵は紀橡姫(光仁天皇のお母さん)が葬られています。ただし明治27年に治定されていますので、本当かどうか分かりません。尾根筋の細い道を歩いた山頂に陵はあります。この尾根筋の道ですが途中で、どう見ても堀切と土橋のセットがありました。山頂は郭を造れる広さがあり、ひょっとすると、まだ知られていない山城かもしれません