カテゴリー別アーカイブ: 大阪の話題

ほったらかしにできる花鉢ハラポット

原スイコー社(堺市)の花鉢ハラポットを試してみました。

まず石切商店街にある花屋さんで買ってきた花鉢からハラポットに植え替えます。根についた土を落としますがマンションのベランダで行いますので水洗いできません。本当は水洗いをした方がよいでしょうが、風呂場でやるわけにもいかず、適当に土を落としてキットについている培養土(軽石と布のようなものでとっても軽い)に入れます。

ハラポット

次に2リットルのペットボトルに培養液を少し入れて水で薄めます。10mlと書いていましたが目分量です。(笑)ペットボトルを振ってから水タンクに入れてセットすれば作業は終了。水タンクを下向きにする時に素早くやらないと少しこぼれます。あとは日があたるところに置いて、ほったらかしです。

水タンクは5日ほどでなくなりますので、なくなる前に補充するだけ。出張でも、ほったらかしでかまいません。水タンクは重いのですが培養土などはとっても軽いです。ベランダに花を植えていますが、水やりをどれほどやればよく分からず、やりすぎて枯らすこともありますがハラポットはほったかしでかまいません。

花を植えたら次々に他の花も咲きだし1ケ月ほど楽しめました。

→ 原スイコー社

オタクからインバウンドへ 日本橋

通天閣

ソフマップのマックコレクションやサウスステーションがあった頃、よく日本橋に行っていましたが、オタクの街に変貌してからは、もっぱらヨドバシ・ウメダに行っています。

久しぶりにセンサーを買おうと日本橋へ行ってみると、すっかり様変わり。あいかわらずオタクの街なんですが、多いのが外国人観光客。アニメなどが目的かなとよく見ると堺筋本町通り沿いに5軒ほどのホテルが新しく建っていました。

日本橋には食べ歩きがある黒門市場があるし、歩いてすぐのところに通天閣や新世界などの観光スポットがあるのでホテルの立地としては最適です。難波も歩いていけます。日本橋はインバウンドの街に変貌しつつあります。

豊浦は邪馬台国と関係がある?

額田戎神社

我が家の隣が豊浦町ですが、反対側には額田町があります。

こちらも古い土地で額田氏が住んでいました。今は住宅街になってしまいましたが、古代には馬を放牧する牧だったようで遺跡からも馬の骨などが見つかっています。額田の名前の由来は額に旋毛(つむじ)がある馬を大王に献上したことから額田部の姓をたまわったようです。当時は軍や農耕に馬の機動力が必要でしたので馬の放牧はとても重要でした。豊浦に拠点があった河内母樹馬飼首御狩の名前にも馬飼とついています。

■額田と豊浦
額田氏の居住した地域には額田や豊浦の地名が多く、奈良の平群や尼崎にも額田という名前の土地があります。推古天皇は額田氏に養育されたことから額田部皇女と呼ばれ、飛鳥で政治をとった場所が豊浦宮と呼ばれました。推古天皇は豊御食炊屋姫尊とも呼ばれています。

■トヨは邪馬台国と関係がある
神功皇后の宮も豊浦宮で、聖徳太子(豊聡耳)やお父さんである用明天皇(橘豊日天皇)にも皆、豊(トヨ)が入っています。日本書紀は魏志倭人伝を読んでいるはずなのに邪馬台国の記載がなく、神功紀に邪馬台国で卑弥呼の後に擁立されたトヨが魏王に朝貢したと解釈できる文があり、邪馬台国のトヨが豊浦などと関係しているのではという説もあります。

ウチの近所で孔舎衙坂の戦いが行われた?

暗峠

近鉄・新石切駅から少し北に行くと日下(くさか)という土地があります。神武天皇の時代は生駒山の麓まで海でした。

日下は草香、孔舎衙とも書き、日本書紀、古事記に出てくる神武東征で孔舎衛坂の戦いが行われたところです。大和をおさめていた長髓彦(ながすねひこ)に敗れ、神武天皇の兄が矢傷を負います。神武天皇は”日神の子であるのに、東(太陽)に向かって進んだのがダメなんだ”という”最初からそんなことぐらい分かるだろう”というツッコミどころ満載の理由で紀州を迂回し、熊野から大和へ攻め入ります。

■孔舎衛坂は暗峠?
神武東征は日下の出来事と思っていたんですが、「蘇我氏と馬飼集団の謎」という本を読むと、隣の豊浦町が孔舎衛坂の戦いの舞台になっていてビックり!長髓彦の攻撃をやりすごすために大きな樹に隠れてやりすごした人がいて、恩、母のごとしと樹に感謝したことから、その地を母木邑(おものきむら)と名づけました。この母木邑が豊浦町だそうです。

大阪から奈良へ攻め入るなら暗峠を進のが基本です。大坂の陣でも後藤又兵衛らが暗峠を越えて、大和郡山城を占領しに行っています。暗峠に行く途中が豊浦なので、孔舎衛坂の戦いとは暗峠の攻防戦だったかもしれません。

継体天皇の時代に任那復興で派遣された近江毛野臣の従者に河内母樹馬飼首御狩という人物がいて母木邑の母樹が名前に入っています。枚岡神主の水走氏旧記によると、母木は豊浦になっていますので、河内母樹馬飼首御狩の本拠地は豊浦周辺のようです。大坂夏の陣で徳川家康が本陣を置いた中村屋敷跡も豊浦にありますので、今は住宅街ですが昔は館を作りやすい土地だったのでしょう。

神武天皇の東征か、もしくは神話のモデルとなった戦いはウチの近所で行われた可能性大なんですねえ。

サントリービルディング

サントリービルディング

堂島の一番端にあるのがサントリービルディングです。堂島グランドビルにいた頃、サントリービルディングの地下にあったバーに、時たま行っておりました。

マティーニにパールオニオンを入れるとギブソンになりますが、当時、読んだ火浦功の「ハードボイルドで行こう」にパールオニオンではなく桃屋の花らっきょをマティーニにいれるシーンがあり、真似して入れたのはサントリーのバーだったかなあ。

■ペンギンCM 覚えています?
サントリーといえばCMですね。1980年代はペンギンで松田聖子のスィート・メモリーズがバックに流れたペンギンの悲喜こもごものアニメでした。あと山下達郎のアイラブユーが流れるなか、ロボット風パントマイムのCMもオシャレでしたね。

もう少し古い時代には、ちょうど日経新聞の小説連載でオールドが登場していますが、オールドのコマーシャルに冬の渡り鳥というのがあります、夜の浜辺で焚火をしながらホットオールドを飲むシーンが出てきます。

その時のセリフが「冬になると渡り鳥が木の枝をもって渡ってくる。波間に浮かべて休むためだ。春になって鳥たちが帰っていくと、冬を越せなかった鳥の数だけ木の枝が浜辺に残る。その枝をくべてウィスキーを飲む。」としみじみする内容でした。

一幅の絵になるようなコマーシャルって、少なくなりましたねえ。CMスキップが行われるわけです。

堂島グランドビル

堂島グランドビル

新入社員で入社したのがSRAというソフトウエアハウス。堂島グランドビルにありました。

堂島グランドビルは梅田地下街でつながっていて阪急梅田駅から濡れずに通勤できるのがよかったですね。1階にはオーム社という本屋があり、「bit」や「UNIXマガジン」など理工系書籍が充実しており重宝しました。同じく1階にあったのが第一勧銀で今も「みずほ銀行」があります。

先日、行ってみたら地下街から堂島グランドビルの地下へ行く道がなくなっていました。当時は隣に毎日大阪会館があり、地下には大毎地下劇場という映画館があって、この横を通って地下街に出られましたがホテルなどに変わってしまい閉ざされたようです。

重願寺(大坂三十三所巡り)

重願寺

新設されるJR総持寺駅について先日、記載しましたが、駅名の元となる総持寺は西国三十三所第二十二番札所です。西国三十三所巡りは岐阜、滋賀、京都、奈良、大阪、兵庫、和歌山に点在する三十三か所の観音信仰の霊場を回るもので、かなり大変!ちなみに観世音菩薩が衆生を救うとき三十三の姿に変化するところから三十三所巡りとなっています。

■大坂三十三ヶ所巡りというショートカットがあった!
時たま散歩で蓮の写真を撮っている重願寺入口に「西国三十三所観世音十七番札所」という碑が建っていました。東大阪にもあるんだと調べたら西国三十三所巡りではなく大坂三十三ヶ所巡りでした(笑)。

なんでも江戸時代に29ヶ所の寺院と4ヶ所の神社をめぐると、西国三十三ヶ所を遍路したのと同じご利益があるとして大流行したそうです。西国三十三所巡りは大変なので、つまりショートカットですなあ(笑)。

井原威西鶴の曾根崎心中にも大坂三十三ヶ所巡りが出てくるそうで、「十七番に重願寺、これからいくつ生玉の本誓寺ぞと伏し拝む。」と記載されています。大坂三十三ヶ所巡りは戦争などで廃れていましたが、復興運動が起きているようです。大坂七墓巡りなど、いろいろな巡礼が復興していますね。

おやぢの会

つるとんたん

昨日は北新地にある「つるとんたん」へ。”おやぢの会”という平均年齢が高い会があり、メンバーではないはずなんですが、なぜか毎回参加しています。

締めに好きな”うどん”が選べるのですが、これがでかい鉢のような器で出てきてボリュームがあります。

梅田ダンジョン

古河大阪ビル

昔、プログラマをやっていた頃、上新庄に住んでいました。阪急梅田駅から地下街を20分ほど歩き、堂島にあった会社まで通っていました。駅から一度も地下街から出ないので雨に濡れずにすみます。

梅田地下街は地下1階、2階と二層構造になっているところもあり、なぜか川が流れ、おまけにビルをどんどん地下街に飲み込んでいますので、初めての人にとっては、まさに迷路。実際、私より先に会社を出た同僚が梅田地下街で迷っているところを見つけたことがあります。最近は梅田ダンジョンや梅田地下帝国とも呼ばれています。梅田地下街を自在に歩けるようになったら、一人前の大阪人。迷ったら、とにかく地上へ出るのが鉄則です。

地下街の東端は泉の広場、北端は阪急三番街、西端は毎日新聞社、南端はサントリービルになっています。阪急梅田駅、阪神梅田駅、JR大阪駅・北新地駅、地下鉄梅田駅・東梅田駅・西梅田駅が全部、地下街でつながっているという他の地域ではなかなか見ない規模の地下街ですね。写真は南端近くにあった古河大阪ビル。会社の分室があり最後の数十メートルだけ雨に濡れました。

どんどん増殖して迷路化しているので、1980年頃に堀晃が「梅田地下オデッセイ」というSF小説を書いていました。人々がコンピュータの誤動作かなにかで梅田地下街に突然閉じこめられる、ちょっと怖いお話。当時、”あの地下街ならありうるな”と妙に納得した覚えがあります。

堺東駅

堺東駅

南海電車の急行などに乗ると難波の次に止まるのが星野リゾート・ホテルで話題の新今宮駅。次が天下茶屋駅で天下茶屋を出たところで南海本線(和歌山へ)と南海高野線(高野山へ)に分かれます。南海高野線を天下茶屋駅から10分ほど走って着くのが堺東駅です。

堺は大坂の陣では最初は豊臣方、冬の陣前には徳川方に味方しました。夏の陣となり徳川方である和歌山の浅野長晟を攻めるために大坂城を出撃した大野治胤(大野治長の弟)は徳川方に味方した堺を焼き、焦土にしてしまいます。真田信繁率いる真田軍が家康本陣に突っ込む時、徳川方を動揺させるため「浅野殿が裏切られた」と叫んだ浅野殿とは浅野長晟のことです。

大坂の陣が終わり、復興事業がはじまります。元和の町割が行われ大小路は東西方向(横筋)の基幹道路として整備され、堺の市街地の東端にある土居川には大小路橋がかけられます。現在、川は埋め立てられましたが大小路という地名は残っています。ここが竹内街道や西高野街道と接続する堺の東玄関となります。堺東駅はもともと大小路駅という名前でしたが、すぐ堺東駅となりました。大小路駅の方が由緒があってよかったのに!