カテゴリー別アーカイブ: 地域の話題

大門商店街

大門商店街

津の中心市街地にあるのが大門商店街。日本三大観音のひとつと言われている津観音の門前にある商店街で、昔の伊勢街道が通っています。仁王門の前なので大門商店街といいます。関ケ原の戦いの前哨戦である安濃津の戦いでは、こごが激戦の地となりました。

先日から大門商店街を覆っていたアーケードの撤去作業がはじまっています。私が子供の時は映画館もあって賑わった大門商店街ですが、多くの商店街と同様に空き店舗が増えています。

ほとんどの商店街は高度化資金問題というものがあります。商店街では振興組合を作っていてアーケードなど皆が共通で使う施設などを整備しています。当然、タダでは作れませんので、どこからか借りてきなければなりません。これが高度化資金という低利融資です。

■高度化資金の返済が大変
融資なので借りたら返さないといけません。右肩上がりの時代は問題なかったのですが、商店街への集客が減ってくると中には商売をやめ別に売ってしまう事業者や、場合によっては夜逃げもあります。

30社で振興組合を組織していても10社減ると、借金返済を残った20社で払わざるをえません。新しく店舗を買った事業者に請求できればよいのですが、売る方は早く売りたいので高度化資金の話はしていません。買った側はそんな話は聞いていないになります。また、全国チェーンの居酒屋などが買うと店長で決裁できず本部に連絡しても、のらりくらりで支払わないところがあります。地元出身の店長は板挟みで苦労することになります。

アーケードの撤去を眺めながら、そんなことを思っておりました。

平家終焉の地

平家終焉の地

平清盛の三男が平宗盛です。

長男の重盛は清盛よりも先に病死し、次男の基盛は24歳で早世したため、三男の平宗盛が平氏の棟梁となりました。源氏との戦いとなり一の谷の合戦、屋島の合戦と戦いましたが敗退することになります。最終決戦となった壇ノ浦の戦いでは海に飛び込みましたが引き上げられて、義経によって鎌倉へ連行されます。鎌倉から京都へ戻る途中、義経が元服した場所のすぐ近くの大篠原で義経の命により切られました。ここが平家終焉の地となっています。

清盛の四男である知盛は壇ノ浦で「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と碇と共に海に沈んだと言われます。五男の平重衡は一の谷合戦で敗れたあと、鎌倉に護送されましたが、大仏や興福寺などを燃やされた南都衆徒の要求で引き渡され、木津川畔で斬首されました。平宗盛が切られたのと同時期でした。

■源平交代説
平家を倒した源氏でしたが、やがて北条家(平家)の支配となり、鎌倉幕府が続きます。この鎌倉幕府を滅ぼしたのが足利(源氏)で、ここから平家、源氏の源平交代説が出てきます。

ですので足利義昭を追放した信長は平家を名乗っています。秀吉は農民出身が周知の事実で系図書きかえができないため、源平藤橘という四姓に豊臣という別の姓を創出します。これは天才的なやり方ですね。家康となると、また源平交代説となり、松平家を得川家(徳川家)という新田系源氏に結び付けることとなります。

義経 元服の地

鏡神社

滋賀県竜王町に鏡という土地があります。東山道(中山道)の宿場があったところでした。今は幹線道路で車やトラックが行きかう所となりました。

源義経が奥州の金売り吉次の手引きで鞍馬を抜け出し奥州平泉を目指します。鏡では白木屋という長者「沢弥傳(さわやでん)」の屋敷に泊まっていた所に知らせが届き、稚児姿(寺院で召し使われた少年の姿)の牛若丸を探していることが分かります。

そこで偽装するために急ぎ元服することにしました。源氏の左折れの烏帽子を作り、前髪を落とし元結(もとゆい)の侍姿となります。この時の場所が源義経の元服池として鏡神社の近くにあります。この時から源九郎義経と名乗ることになります。

源氏の再興と武運長久を祈願したのが鏡神社となります。願いがかなったパワースポットですなあ。

2つある大市神社

大市神社

実家のすぐ近くにあるのが津市岩田の大市神社。小さな頃はお神輿を担いだ思い出もあります。

岩田の大市神社のずっと西側にある安濃にも大市神社があります。岩田の大市神社は郷社ですが安濃の大市神社は式内社になっています。昔、安濃の大市神社にあった大松が洪水で流れ、下流の岩田川で拾い上げられたことから、この松が縁で岩田の大市神社ができたという話があります。神社が流れて松に引っかかったという話もあります。岩田の大市神社は江戸時代の古地図にも載っていて、現在と同じ場所に川松社という名前でありました。川で拾った松という意味ですかねえ。

大市神社の主祭神はオオイチヒメノミコト(大市比売命)ですが、この大市という名前はもともと大和朝廷発祥の地である巻向にあったようです。伽耶出身の都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)で敦賀(つるが)の語源となった人がいます。日本書紀や古事記にも登場する、超有名人物です。このツヌガアラシトの後継が「新撰姓氏録」に載っていて、大市首が後継です。ですので大市氏は本来、巻向あたりにいたようですが、この大市氏の一部かどうか分かりませんが、なんで安濃に来たのかは分かりません。

グランフロント大阪

昨日はITC維新会の勉強会があり久しぶりに参加してきました。

会場がグランフラント大阪という梅田の北側に開発された複合商業施設です。時間があったのでヨドバシカメラに寄ってからグランフロントへ。以前はヨドバシカメラから大阪駅やグランフロントへ行くのが大変でしたが、渡り廊下ができていました。便利になりましたね。

■グランフロント大阪
土曜ということもあり観光客などでごった返しているグランフロントですが、オフィス棟に入るところが分からない(笑)。

受付で聞いたら中国系のようでしたが日本語でオフィス棟の入口を教えてくれました。オフィス棟エリアに入ると、さっきまでの喧騒はなんだったのと、いうぐらい静かな場所。まずは9階にあがって、上層階へ行くエレベータに乗り換えます。この上層階へ行くエレベータがまたまたオシャレで、上へ行くボタンがない。

最近のエレベータは画像認識して動作させているのかなと待っていても、エレベータが来ない。手を振っても認識しません。実は上へ行くボタンがあり、あまりにもオシャレなデザインにしているので気がつかない代物でした。別の参加メンバーも同じように探しまくったそうです。

早めに出たはずがエレベータで手間取って、オシャレな会議室にたどりついた頃にはスタート時間が過ぎていました(笑)。

終わってからは庶民的な「かっぽうぎ」で宴会。17~19時に60分飲み放題500円というのをやっていました。ただし一人2品頼まないといけないという縛りがあります。

松尾神社(山城国一揆の舞台)

松尾神社

上狛にあるのが松尾神社。小高い丘を登ったところにあります。

■山城国一揆の舞台
この松尾神社が山城国一揆の舞台となりました。一揆と聞くと年貢減免のため百姓一揆するイメージがありますが、中世では荘園領主の政治力や軍事力に対抗するために国人(武士)や百姓が結束して対抗したことをいい、いわば共和国です。スターウォーズみたいですな~あ。

織田信長が伊賀に攻め込んだ天正伊賀の乱は織田信長と伊賀惣国一揆との戦いでした。加賀では守護を倒して本願寺門徒が国を治めていましたが、これが加賀一向一揆です。こちらも織田信長に攻められました。こうなると織田信長は帝国軍ですねえ。

南山城(京都の南部)では守護大名畠山氏に対抗するために山城国一揆が成立します。国中掟法が制定され、「三十六人衆」と呼ばれる国人衆によって政治が行われることになります。まさに共和国で、この国人の一人が狛氏でした。一揆に参加した国人達が結盟を行った場所がこの松尾神社と伝承されています。

内部対立もあり8年間の自治のあと山城国一揆は崩壊しました。

■かって関西電子共和国(VRK)がありました。
1995年4月1日に本当に建国されたのが関西電子共和国。ただしインターネットのなかでの壮大な社会実験でした。

当時、友人との間で
「今晩、飲みにいかない?」
「ごめん、今日は共和国の会議があるんだ。」
という“ジェダイの騎士”のような会話が行われていました。

こちらの共和国もなくなってしまいましたが、顛末について知りたい方は

→ 「バグは本当に虫だった」(ペンコム)をぜひ、どうぞ、第4章です!

高麗(こま)寺跡

高麗寺

狛城があった上狛環濠集落から少し離れたところに高麗(こま)寺跡があります。木津川(泉河)を見下ろす高台にあります。

この高麗寺は、飛鳥時代に創建された最古の寺院跡の一つで、日本書紀、日本霊異記などの文献にも登場します。金堂が西、塔が東に建ち、周りを回廊により囲まれた法起寺式伽藍配置になっていました。近年、白鳳時代(680年頃)に築かれた築地塀が出土しています。高麗寺跡へ行くと、ちょうど史跡公園として整備しており塔跡などは工事中でした。

高麗寺は高句麗からの渡来氏族・狛(高麗)氏の氏寺でした。狛氏は南北朝の戦い、応仁の乱を生き抜き、山城国一揆によって惣国と呼ばれる一種の共和国ができた時の有力国人の一人でした。やがて南山城は織田信長、秀吉の天下統一に巻き込まれていきます。

■高句麗からたくさんの亡命者
狛氏の出自である高句麗というと韓国ドラマによく登場する国ですね。百済、新羅、倭が登場する好太王碑でも有名です。唐との戦いで高句麗が滅亡した時は王族をはじめとするたくさんの亡命者が来日しました。

現在の難民を受け入れるヨーロッパのような状況で武蔵国には高麗郡が設置され、狛江市など全国に高句麗に関係する地名が残っています。高句麗だけでなく武蔵国には新羅郡、摂津国には百済郡などもできました。

名曲喫茶 柳月堂

柳月堂

出町柳駅前にあるのが名曲喫茶「柳月堂」。

大きなスピーカーでクラシックが流れるお店で、学生時代、時たま行っておりました。当時は小川通にハイドン、銀閣寺近くにゲートという名曲喫茶がありました。

柳月堂は1981年(昭和56年)に閉店となり、京都新聞などに大きく取り上げらえましたが、現在の2階建てビルに建て替えられた後、常連客からの復活要望などに答え、復活しています。今、1階はベーカリーショップになっています。

大文字送り火の火床

大文字

如意岳城から銀閣寺に向かって山道を降りる途中に五山送り火の火床があります。いわゆる「大」の部分です。

そうそう京都人の前で”大文字焼き”と言ってはいけません。「京都には”大文字焼き”なんて言葉は、あらしまへん」とバカにされます。言うなら”大文字の送り火”です。

遠くから見ると、きれいな「大」ですが近くで見るとコンクリートの火床が点々と続いているだけの代物。この火床の上に薪を井桁に組んで8月16日に点火します。

50年ぐらい前、京都のバカな学生達が送り火の前日から山に入って隠れて待機し、「大」の点灯と共に束にした懐中電灯をつけ「犬」にしてしまったという事件が起きます。学生たちはこっぴどく叱られて京都新聞に犬文字事件が掲載されたそうです。「夜は短し歩けよ乙女」ではありませんが、京都は学生を阿呆にする不思議な街でもあります。

長谷寺 二本の杉

長谷寺

高束城跡から石畳の道をずっと下ると初瀬ダムがあります。ここから初瀬川となり、やがて大和川になって大阪湾へ至ります。

初瀬ダムから初瀬川沿いに下っていくと牡丹で有名な花の御寺である長谷寺があります。ふつうは近鉄の長谷寺駅から行くのですが、山側から行くのも、なかかなオススメです。長谷寺に着き、境内入口で待っているのが399段の登廊です。

長谷寺の創建は奈良時代で、平安時代には貴族の信仰を集め、枕草子、源氏物語などにも登場します。登回廊の途中から藤原定家塚へ行く道があり、途中にあるのが二本(ふたもと)の杉で、この杉は源氏物語の第22帖「玉鬘(夕顔の娘の名前)」で登場します。

長谷寺の御利益を頼みに参詣の旅に出た玉鬘が、夕顔(母親)の女房である右近と再会するのが二本の杉で、根元から二本に別れています。再会がかなう霊木とされており現在もあります。早い話がパワースポットの一つなんですが、全然知られていないようで観光客は誰もいません(笑)。再会で縁結びじゃないからかな~あ。