カテゴリー別アーカイブ: 岐阜県の山城

不破の関(関ヶ原)

不破の関

関ヶ原シリーズもいよいよ最終回。

■関ヶ原は壬申の乱の舞台でもある
関ヶ原の戦いよりも900年ほど前にあったのが壬申の乱。徳川家康が最初に陣地を置いたのが桃配り山で、大海人皇子が兵士に邪気を払う桃を配り快勝したことにちなんでいます。関ヶ原は交通の要所で中山道が通っており、北国街道、伊勢街道に分岐しています。この関ヶ原にあった不破の道を封鎖したのが大海人皇子。

壬申の乱を勝ち抜いた大海人皇子は即位して天武天皇になり、不破関、鈴鹿関、愛発関の3つの関所を設置します。写真は現在の中山道で、ここから急な下り坂になり、坂を下ると藤古川があります。下からみると崖になっていて、この場所に不破の関が作られました。現在も土塁などの一部が残っています。関所というと箱根の関所のようなイメージですが、古代の関所は広範囲に土塁や壁で囲まれた施設で部隊が駐屯していました。

■非常事態には関を閉じる
天皇がなくなったり非常事態が起きると三関が閉じられます。これを、固関(こげん)と呼んでいます。外部から都への侵入を閉じたのではなく、都側の方を閉じました。不破関も東側はなだらかな丘陵で壁があっただけですが、都がある西側は藤古川と急な崖で防衛されていました。

大海人皇子は関東の尾張族の力によって壬申の乱を勝ちましたが、同じように外部の勢力と結びつかないようにしたためかもしれません。威力を発揮したのが藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱。藤原仲麻呂はクーデターに失敗し、息子がいる北陸に逃げようとしましたが、愛発関が閉じられ突破できず、結局、琵琶湖で討伐軍に討ち取られます。

藤堂高虎、京極高知陣跡(関ヶ原)

藤堂高虎、京極高知陣跡

まだまだ続く関ヶ原シリーズ 第12回は藤堂高虎・京極高知陣跡です。

東軍の第一軍が福島正則隊で、藤堂高虎・京極高知は第二陣になります。不破の関跡あたりまで進軍し、大谷吉継の隊に属していた平塚為広(美濃垂井城主)と交戦。小早川秀秋軍とともに大谷軍を破っています。

■京極高知
京極高知は名前の通り、近江守護で北近江をおさめた京極氏。浅井氏は京極氏の被官でしたので小谷城には京極丸があり、名義上の盟主を京極氏にしていました。信長が清州城に尾張守護の斯波氏を迎えていたのと同じ構図です。もっとも信長は途中で斯波氏を追放してしまいました。

京極高知の兄が京極高次で奥さんは浅井三姉妹の初。大河ドラマ「真田丸」では姉の淀君への使者として登場するはずです。関ヶ原の合戦の時は大津城城主で西軍の立花宗茂らに攻められましたが関ヶ原の合戦時までねばり、立花宗茂らは関ヶ原に間に合わず結局、西軍の勢力をそぐことに成功します。京極氏は兄弟で家康側として戦いました。

■藤堂高虎
藤堂高虎は最初、浅井の家臣ですので、京極氏は昔の主筋。ともに戦うことになった時、感慨深いものがあったでしょうね藤堂高虎は何度も主君を変えた戦国武将として有名ですが、江戸時代、外様だった高虎を家康がめちゃくちゃ信頼していましたので、半分以上は譜代のやっかみでしょう。藤堂高虎は秀長(秀吉の弟)に仕えた時に頭角をあらわし、はじめて自分の力量を評価してもらえる主人と巡りあい、せっせと働いて自身も大名になります。ところが長年、仕えた秀長が病死し、後を甥の秀保が継ぎ、家老として後見します。秀保の代理として文禄の役にも出征しますが、この秀保も若くして亡くなってしまいます。ホトホトいやになったようで、高野山に出家。この時は秀吉が説得して還俗させます。

藤堂高虎といえば旗印にしている三つの白餅が有名ですが、他にもいろいろな逸話が残っています。関ヶ原で敗れた石田三成に声をかけ、わが軍の直すべきところを教えてほしいと言った話は有名です。津藩の初代藩主となります。

福島正則陣跡(関ヶ原)

福島正則陣跡

関ヶ原シリーズ よく続きますねえ。(笑)
第11回目は福島正則陣跡です。

関ヶ原駅から少し西に向かうと松尾という交差点があり、少し南に行った春日神社の境内に福島正則陣跡があります。この神社の大杉は樹齢800年で、400年前の関ヶ原の時にもあり、関ヶ原合戦屏風の真ん中に描かれています。神社も当時からあったようで祠も描かれています。ここらあたりに陣を置いた福島正則は目の前の宇喜多軍とぶつかりますが、宇喜多勢の前衛が大河ドラマ「真田丸」にもきっと出てくるキリシタン武将・明石全登です。

■石田三成がきらいだった福島正則
福島正則は小さい頃から秀吉に預けられ加藤清正らとともに、秀吉の奥さん「お寧」に育てられ初陣は播磨の三木城攻めだったようです。文禄の役の頃から、石田三成とはそりがあわなかったようで、七将による石田三成襲撃事件にも加わっています。

先日、「地形で読み解く真田三代最強の秘密」(朝日新書)を読んでいたら、この襲撃事件の話が載っており、福島正則は三成に襲撃を事前通告していたそうです。石田三成が挙兵するか家康のもとへ行った時に殺してしまおうと考えていましたが、家康はそんな安直な道を選ばず、三成を隠居させることになります。この時、佐和山城へ送り届けたのが家康の次男・結城秀康で三成は結城秀康に秀吉からもらった名刀・正宗を送り、現在まで伝わり重要文化財になっています。ただ、三成の隠居がきっかけで関ヶ原の合戦になりましたので家康も驚いたでしょう。

■名槍を黒田家にとられた福島正則
大河ドラマ「黒田官兵衛」でも描かれていましたが、福島正則が黒田家家臣・母里友信に酒すすめたところ、断られ酔っていた福島正則は母里友信を罵倒し、「これしきの酒が飲めないのか、飲めたら何でもやるぞ!」と言ってしまいます。酒癖が悪かったようですね、自戒しないと(笑)。怒った母里友信が見事に酒を飲みほし、秀吉からもらった名槍をまんまとせしめます。これが「酒は呑め呑め~」の黒田節となります。

関ヶ原の後、福島正則が領地にしたのが広島藩。三成とは反目していましたが、気持ちは豊臣方だったため大坂の陣では江戸にとどめられます。家康が死んだ後、広島城の石垣等を幕府に無断で修理したことが武家諸法度違反にとらわれ、結局、福島家はとりつぶしとなりますが旗本としては残りました。

三成と同郷だった田中吉政陣跡(関ヶ原)

田中吉政陣跡

関ヶ原シリーズ 第10回は田中吉政陣跡

徳川家康最後陣跡が関ケ原町歴史民俗資料館のすぐ横にありますが、田中吉政陣跡もすぐ近くにあります。この位置ですので石田三成軍と戦っていたのでしょう。

田中吉政は近江・長浜の出身で石田三成の出生地のすぐ近く。田中吉政の方がひとまわり年長です。もともと浅井家の武将だった宮部継潤に仕えましたが、秀吉の調略で宮部継潤が織田方になったため、そのまま宮部継潤から秀吉に仕えます。そうそう本能寺の変の時、織田勢力の一番西側にある鳥取城を守っていたのが宮部継潤で、秀吉は全幅の信頼をよせていました。

■家康の後、岡崎をおさめたのが田中吉政
小田原の北条攻めが終わった後、秀吉によって家康は関東に移転させられますが、家康の旧領だった岡崎に入ったのが田中吉政です。宮部継潤と同じで、秀吉から信頼されていたのでしょう。

関ヶ原の合戦では家康に味方し、戦いが終わった後、探索を命じられ伊吹山中で逃亡中の石田三成を捕まえます。同郷ということもあり三成を手厚く扱ったようで、秀吉から三成がもらった脇差を田中吉政に渡し、この脇差が現在まで伝わっています。

■関ヶ原のあと、柳川藩初代藩主に
関ヶ原の功で筑後一国が与えられ柳川へ入ります。立花宗茂が西軍として大津城攻めを行ったため、柳河の領地を取り上げられ、代わりにあたえられました。柳川藩・初代藩主となります。田中吉政は関ヶ原の合戦から9年後に京都で死去。ところが復帰運動を展開した立花宗茂は旧領の柳川への復帰が成功。柳川藩田中家は2代で終わってしまいます。真田昌幸(幸村の父親)が立花宗茂と同様に復帰が認められていれば、来年の大河ドラマ「真田丸」はなかったでしょう。

本多忠勝陣跡(関ヶ原)

本多忠勝陣跡

関ヶ原シリーズ。今回は本多忠勝陣跡。

■桑名藩の初代藩主
本多忠勝といえば酒井忠次、榊原康政、井伊直政と並ぶ、いわゆる徳川四天王の一人です。三重県人としては桑名藩・初代藩主として有名で、桑名城跡の九華公園には鹿角の兜をかぶった本多忠勝の像があります。すぐ隣が中食で有名な柿安本店。最後は桑名で亡くなっています。

桶狭間の戦いで徳川家康が丸根砦、鷲津砦に囲まれた大高城に兵糧を入れますが、この時が初陣でした。武田信玄との戦いとなった一言坂の戦いで徳川軍が大敗しますが、本多忠勝は殿(しんがり)を守り、無事に徳川家康を逃がします。武田軍からは「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」とたたえられます。唐の頭というのは家康が愛用していたヤクの毛で作られた兜のことで、本多平八とは忠勝のことです。

蜻蛉(とんぼ)切という名前の槍を愛用し、鹿の角の兜がトレードマークで、「蜻蛉が出ると、蜘蛛の子散らすなり。手に蜻蛉、頭の角のすさまじき。鬼か人か、しかとわからぬ兜なり」という本多忠勝をうたった川柳が伝わっています。関ヶ原では徳川本陣にあって、本多本隊は嫡男の忠政が率いていました。

■真田信繁(幸村)の親戚だった
本多忠勝の娘が上田の真田信之に嫁いでいたため、信之は東軍に味方します。この信之の弟が真田信繁(幸村)で、関ヶ原の戦後処理で真田昌幸・信繁(幸村)親子の助命を真田信之と共に家康に嘆願します。結果的に助命されて九度山に流されます。大河ドラマ「真田丸」にも絶対に、この嘆願シーンが出てくるでしょうねえ。

松平忠吉・井伊直政陣跡(関ヶ原)

松平忠吉・井伊直政陣跡

関ヶ原シリーズもいよいよ佳境に入ってきました。(笑)

第8回は松平忠吉と井伊直政陣跡。

■女城主によって井伊直政が誕生
陣跡はJR関ヶ原駅のすぐ近くにあります。松平忠吉は徳川家康の四男で、井伊直政の娘婿。井伊直正はご存じ徳川四天王の一人です。来年の大河ドラマは真田丸ですが、再来年の大河ドラマは井伊直虎で柴咲コウが演じます。井伊家の当主が戦死し、父親も謀略で殺され、後継ぎの虎松(2歳)だけしかいない状況になった時、出家して尼になっていた女性を井伊家の当主に据え中継ぎにします。女城主となり名前を直虎にし井伊家を守ります。虎松を教育し、育て今川家を見限り、徳川家康につきます。この虎松が後の井伊直政となります。

■井伊の赤備え
武田信玄が滅んだ後、家康が武田遺臣を配属したのが井伊直政。武田の赤備えで有名な山県隊も配下となったため、軍装を赤備えにします。これが井伊の赤鬼と怖れられます。大坂の陣では武田二十四将であった真田信繁(幸村)の赤備えと井伊家の赤備えが真田丸で激突します。きっと来年の大河ドラマでこのシーンも出てくるでしょう。

■そして彦根へ
松平忠吉は関ヶ原が初陣。先陣は福島正則が命じられていましたが、井伊直政は松平忠吉を引き連れて福島正則を出しぬき、宇喜多勢に一番槍をつけています。合戦の終盤となると島津の退き口が始まり、徳川軍による追撃がはじまりますが松平忠吉、井伊直政ともに、この追撃で重傷を負います。先陣と追撃の功により井伊直政は高崎城から石田三成の所領だった佐和山城が与えられます。佐和山城ではなく、もう少し街中に新しい城を造りますが、これが「ひこにゃん」で有名な彦根城となります。ちなみに高崎と名付けたのが井伊直政です。

島津義弘陣跡(関ヶ原)

島津

関ヶ原シリーズ第7回は島津義弘陣跡です。

「島津の退き口」 敵前突破という前代未聞の撤退を行った島津義弘の陣跡です。

戦国時代の九州といえば大友、島津、鍋島の三国志状態でしたが島津義弘は兄の島津義久とともに九州中を席巻。ところが秀吉の九州征伐で敗退してしまいます。負けたあとは秀吉に従い、文禄の役や慶長の役にも参加し、泗川の戦いでは明・朝鮮の大軍を寡兵で破り、武名をあげました。島津義弘は親豊臣派ですが、兄・義久は反豊臣派。家臣団も分裂していて義弘に本国の島津軍を動かす決定権がありませんでした。やむなく300の兵で関ヶ原に参加せざるをえません。

■関ヶ原の戦い
もともと義弘は家康側につく予定でしたが、亀寿という女性が豊臣方への人質として伏見におり、養父が義久という関係から亀寿の命を第一に考えて西軍につかざるをえなくなります。ただ出陣した限りは戦うつもりでした。島津軍は西軍の作戦上、二番手でしたが一番手が負けた時には全体の勝敗も決まっていて、なんともしようがなかったようです。

■島津の退き口
そこで島津の退き口となりますが、敵味方を識別するようなものは捨てて、乱戦のなかで撤退し壮絶な戦いとなりました。殿(しんがり)をつとめたのが甥の島津豊久で、戦死してしまいます。

島津義久は伊勢街道を抜け、伊勢の国を鈴鹿山脈沿いに逃げますが、この時、水口岡山城主で同じ西軍だった長束正家が道案内を派遣しています。信楽からなんとか大坂へたどりつき、人質を救出して船で九州へ向かいますが、ここで黒田官兵衛の水軍と海戦になってしまい、まさに踏んだり蹴ったり。現在の日向市にようやたどり着き、陸路を佐土原城へ、ここは関ヶ原に戦死した島津豊久が城主でした。ここから山間の道に入り薩摩にたどり着きます。

■後日談
この「島津の退き口」から50年ほど経った頃、薩摩の若者が長い距離を歩いて、島津の退き口を生き延びた武将・中馬大蔵のもとへ話を聞きに行きます。居住まいをただした武将は若者たちを前に「関ヶ原ともうすは・・・」と言ったきり、涙を流し続けて絶句した逸話が残っています。

小西行長陣跡(関ヶ原)

小西行長陣跡

しばらく途切れていた関ヶ原シリーズです。お待たせしました!
そんなシリーズ誰も待っていないって。(笑)

まあ、そうおっしゃらずに、第六回は小西行長陣跡です。

小西行長はもともと堺の薬種商人出身で家は朝鮮人参などの輸入にも携わっていました。やがて岡山の商人の家に養子に入ったことから宇喜多直家の元を訪れるようになり、ヘッドハンティングを受け家臣となります。秀吉の毛利攻めの際、宇喜多直家が秀吉側につくことを決めた時、秀吉との交渉にあたったのが小西行長。才能を見込んだ秀吉は小西行長を家臣にし、やがて大名にまで上りつめます。最終的には秀吉軍のロジスティックスと水軍の長にもなりました。小西家は貿易の利もあり一家でキリシタンになっており小西行長もキリシタンでした。

秀吉との関係がおかしくなるのはバテレン追放令が出たあたりからで、追放された高山右近を自身の領地だった小豆島に匿います。領地を失っても信仰を捨てない高山右近に感銘をうけたようです。文禄の役では先鋒をつとめ、石田三成と共に明との講和交渉を行っていますが秀吉に内緒で交渉したため、秀吉の逆鱗に触れることとなります。貿易もしていた小西家ですので外交に関して秀吉とはだいぶ感覚が違っていたようです。秀吉から心が離れ、秀吉が死んだ頃には領土(熊本の南の宇土)があった九州全土の支配を考えていました。ここらへんは黒田官兵衛と同じですね。

関ヶ原の合戦が起きた時、九州を領有する絶好の機会と考え三成に味方します。小西行長の陣は宇喜多秀家の陣の隣でした。秀家は最初に家臣に取り立ててもらった宇喜多直家の息子ですので感慨深いものがあったのでしょうね。

小西行長の陣跡のすぐ近くに関ヶ原の開戦の碑が建っていますが、実際に開戦があったのはもう少し南の宇喜多秀家陣で、ここで東軍の福島正則軍とぶつかり関ヶ原の合戦がはじまりました。

宇喜多秀家陣跡(関ヶ原)

宇喜多秀家陣跡

関ヶ原シリーズの第五段、今回は宇喜多秀家陣跡。

大谷吉継、小西行長の陣の間にあったのが宇喜多秀家の陣。陣跡は少し高台にあり、西軍最大の1万7千人で関ヶ原の戦いに臨みましたが、戦力的にはいまいちだったようです。原因は宇喜多騒動。

宇喜多秀家がまだ子供の頃、親である宇喜多直家が死んでしまいます。秀吉が可愛がり、養女(前田利家の娘)の豪姫と結婚させます。また秀吉の猶子になっていたこともあり、畿内にいることが多く、領国経営は国元の重臣にまかせていました。ところが秀吉が没すると、重臣間の対立が表面化。

当主である宇喜多秀家に敵対し兵を率いるものも出る始末。調停に乗り出したのが大谷吉継と徳川四天王のひとり榊原康政ですが、家康としたら豊臣方の宇喜多家が分裂する方が好都合なので、榊原康政に手をひかせます。大谷吉継だけでは調停は難しく、結局は豊臣家の筆頭大老である徳川家康の裁断になります。宇喜多家では主だった重臣がいなくなり明石全登が家宰として宇喜多家中を取り仕切ることになります。

調停で家康が恩をうった重臣は東軍側として関ヶ原に参戦。宇喜多秀家は東軍の福島正則隊と激戦しますが、小早川秀秋の裏切りで側面をつかれて敗退。明石全登が斬り死にしようとした秀家を諫めて大坂へ退くように進言し、殿軍を務めます。紆余曲折があり鹿児島に逃れた宇喜多秀家や八丈島に島流し。これが八丈島の流人第一号となります。キリシタンだった明石全登は大坂の陣で真田信繁、毛利勝永らと共に家康と戦い、散っていきました。

石田三成陣跡

笹尾山

関ヶ原シリーズの第四弾。

石田三成の陣跡、笹尾山です。佐和山城に隠居していた石田三成ですが、徳川家康が上杉攻めで大坂城を空けた時にクーデターを起こします。徳川家康は公儀(豊臣方)の仕事として福島正則など豊臣系大名を引き連れて東北に向かっていました。

ここで前田玄以・増田長盛・長束正家と組んで、徳川家康を弾劾する「内府ちかひの条々」を全国の大名に送ります。これで石田三成方が公儀(豊臣方)となり、徳川家康方が賊軍となりました。早い話が幕末に長州と薩摩が組んで起こしたクーデター「王政復古の大号令」と同じです。このクーデターで長州と薩摩が公儀(錦の御旗))となり徳川慶喜が賊軍となります。ただ違っていたのは鳥羽伏見の戦いなどで徳川軍が負けたこと。

関ヶ原の戦いでは公儀の側である石田三成側が負けてしまいました。鍵をにぎったのが松尾山城を占拠した小早川秀秋。石田三成の当初の構想は大垣城の攻城戦で、関ヶ原の南宮山に布陣した毛利の軍隊を後詰にする予定で、松尾山城には総大将の毛利輝元に入ってもらう予定でした。ところが毛利輝元はこれで戦国の世に戻ると領地確保などを優先。もっとも関ヶ原の戦いが長びくと真田昌幸、黒田如水、上杉景勝ら、主だった武将は考えており、領地確保に動いていますので、まさか1日で終わるとは誰も思っていなかったようです。

徳川家康に通じている小早川秀秋が松尾山の城兵を蹴散らして陣取ったため、南宮山の後詰がきかなくなってしまいました。仕方がないので関ヶ原へ移動して布陣することになります。