月別アーカイブ: 2014年11月

名張藤堂家(名張城)

名張藤堂家
名張駅から5分ほど行ったところが、けっこうな高台になっています。この高台にあるのが名張藤堂家の屋敷。昨日、セミナー前に寄ってきました。

伊勢・伊賀をおさめたのが藤堂高虎ですが、養子に藤堂高吉がいました。もともとは織田信長の重臣・丹羽長秀の三男。藤堂高虎に子どがいなかったので秀吉が養子に斡旋したようです。

藤堂高吉は藤堂高虎と共に文禄、慶長の役や関ヶ原、大坂の陣と戦い続けました。高吉が高虎の後を継ぐはずでしたが、高虎に実子が生まれて、実子が継承することになります。つまり藤堂高吉は後継者から家臣の地位になってしまい、これがために津藩本家とはその後もいろいろと騒動が起きるようになります。この藤堂高吉が名張藤堂家の初代。

もともとは藤堂高虎が入るまで伊賀を支配していた筒井定次(筒井順慶の養子)の部下だった松倉重信が名張を領していて、この地に名張城を造りました。この名張城の跡に屋敷が作られ、発掘調査の結果、名張城の石垣跡などが残っています。

名張藤堂家の屋敷の一部しか残っていませんが、江戸時代の上級武家屋敷がそのまま残っている稀有な例になっています。

営業力・販売力をアップするための講座

名張商工会議所
名張商工会議所(名張産業振興センター・アスピア)でセミナー。

「営業力・販売力をアップするための講座」という名前のセミナーで全4回シリーズ。初日は、ホームページを活用したマーケティングのお話をしてきました。

セミナーで4時間しゃべるのはしんどいので、演習を3回ほどいれて休憩。受講者は様々ですが、なかには経営コンサルタントや税理士さんもいて同業者ですがなあ!(笑)。

次回はマーケティングをテーマにしたセミナーを行います。

名張商工会議所は名張駅から徒歩10分ほど離れているんですが、このあたりにあったのが西名張駅。伊賀上野駅から伊賀の町を走り、伊賀神戸駅との間を結ぶ伊賀鉄道が、昔は伊賀神戸駅から先があり、西名張駅までつながっていました。

ところが現在の近鉄が並行して走ることになったため残念ながら伊賀神戸駅から先が廃線になってしまいました。ところどころに廃線跡が残っているそうです。いつか歩かないと。

関地蔵城(新所城)

城山
JR関駅構内に観光案内所があり、関宿巡りのマップをゲット。マップを見ると「西の追分」近くに城山という文字を発見。

城山って...「三重県の山城ベスト50を歩く」に出てきた関地蔵城(新所城)だ~あ~!

のんびり関宿を散策というプランを急遽、山城登りに変更。関宿の宿場町を抜けて、「西の追分」へ。すぐ近くに小山があり、これが城山。でも登り道が分かりません。地元の人に物流倉庫の裏から登れると聞いて、城山に登り石垣跡や郭跡を見てきました。もっとも帰ってから「三重県の山城ベスト50を歩く」の縄張図を見ると1/3もまわっていませんでした。こりゃ、またリベンジしなくては。

「西の追分」から東海道、大和街道が出ていますが城山はちょうど見下ろす位置にあります。古代の鈴鹿関時代には頂上に見張り台があり、鈴鹿関を守る部隊が城山に駐屯していたようです。戦国時代には関氏の関地蔵城がありました。関氏は織田信長の伊勢侵攻では一族の神戸氏などが和睦するなか近江の六角氏と組んで抵抗しますが、最後には降伏。関地蔵城は賤ヶ岳の戦いの前哨戦で秀吉方の蒲生氏郷と織田信孝方の滝川一益とで城の取り合いになりました。

関氏は伊勢平氏(清盛)から出た氏族で家紋は揚羽蝶。「天地明察」で和算の関孝和が出てきますが、もともとは内山氏で若い頃に関家に養子に入ります。この関氏の家紋もはじめは揚羽蝶。どうも伊勢の関氏の系統だったようです。

関西とは鈴鹿関の西のこと

鈴鹿関
関西の語源は関の西側という意味。関というのは不破関(関ヶ原)、鈴鹿関、愛発関(弁慶の愛発超えで有名)の三関のことで関宿には鈴鹿関がありました。ですので鈴鹿関の東側にある四日市、桑名、名古屋は古代では関東でした。

鈴鹿関がどこにあったのか長らく謎でしたが「西の追分」(東海道と大和街道の分岐点)ちかくにある観音山麓から西城壁跡が見つかりました。観音山から城山を通って鈴鹿川まで長い城壁が続いていたようです。古代の関は江戸時代の箱根の関のようなイメージではなく、ずっと城壁が続き、現在の関宿をすっぽり囲んでいました。

→ 亀山市史(鈴鹿関の再現動画)

「壬申の乱」の大海人皇子の時代には関宿には鈴鹿郡家がありました。壬申の乱の後に鈴鹿関が整備されます。

大海人皇子は吉野から逃れて、鈴鹿郡家までたどりついたところで、ようやく東国に入ったと安心します。伊勢国司が応援に出迎え、近江軍に対抗するために鈴鹿の道を封鎖します。ここで合流したのが近江京を抜け出してきた大津皇子。後に持統天皇の謀略で謀反の疑いをかけられ二上山に葬られる、あの大津皇子です。当時は9歳ぐらいでしたのでお供がいたとしても大変だったでしょう。

江戸時代の宿場が残る関

関宿
日曜日、セミナー前に関宿を歩いてきました。

東海道53次の47番目の宿場町「関宿」は、まさに江戸時代のオープンセット。町屋が200棟以上も現存し、東海道で唯一、往時の町並みが残っています。中山道の奈良井宿も趣きありますが、関宿は規模が大きいですね。

東海道と大和道が分岐する西の追分から、東海道と伊勢別街道が分岐する東の追分までの約1.8kmに街並みが続きます。東の追分にある鳥居は20年に一度の式年遷宮の際に、内宮にある宇治橋の鳥居が新調されますが、それをリサイクルしたもの。もう一つの鳥居は桑名の七里の渡し跡にある鳥居にリサイクルされます。東の追分から伊勢別街道に入ると、そこから伊勢神宮の神域でした。

関宿を全部歩くと、けっこう時間がかかりそうだったので、関駅から西の追分まで歩きましたが、まあまあ距離がありました。

精一杯がんばることを「関の山」と言いますが、語源になっているのが関の山車。全盛期には16台ありましたが、現在は4台となっています。山車が壮麗で、これ以上は豪華にできなかったことと、山車をこれ以上、大きくすると道を巡行できなくなることから「関の山」という慣用句が生まれました。

織田信孝の首塚が関にあった

福蔵寺
織田信孝とは織田信長の三男。映画「清州会議」では坂東巳之助が演じていました。首塚が関にあるとは知りませんでした。

織田信孝は信長の伊勢攻めで鈴鹿近辺をおさめる神戸氏(関氏の一族)に養子にはいることになり、神戸信孝と名乗ります。信孝のお母さんは坂氏の出身で、坂氏は関氏の庶流、鹿伏兎氏の庶流にあたります。それで親戚筋にあたる神戸氏の養子に入ったんですね。

関西本線で亀山駅の隣が関駅で、次の駅が加太駅。鹿伏兎氏はこの加太駅周辺をおさめていました。すぐ近くを名阪国道が走っています。

織田信孝は信長が本能寺の変で倒れると、秀吉と組んで山崎の合戦を戦いいますが、清洲会議では甥の三法師に後継者が決定します。

織田信孝は岐阜城に入って、三法師の後見をすることになりますが、結局は秀吉とは敵対し、柴田勝家と組みすることになります。賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が負けると、岐阜城を開城して秀吉に降伏。やがて秀吉によって自害させられ、首は関町の福蔵寺にもたらされ、ここで供養されました。

お墓は自害した知多の安養院にありますが、関に首塚があるとは知りませんでした。

創業塾が終了

亀山商工会議所
亀山商工会議所での創業塾が終了。主催は亀山市創業支援ネットワーク「カメヤマ創業アシスト」です。
私の担当分は2日目の午後、つまり今日で午前中は関宿や亀山城を巡ってきました。連休2日目なので朝から人が多かったですね。

セミナーテーマは「集客・固定客化の秘訣」。小売客、サービス業向けにお願いしますという話でしたが、講座の前に受講者に聞いてみたら小売業はおらず、サービス業が中心。おまけに製造業もいましたので、小売の話は割愛して、サービス業に特化したセミナーをしておりました。今日はよく晴れて、亀山はポカポカで、しかも昼飯を食べた後なので絶対、寝るなと思って、鳴り物を多めにしたセミナーにしました。

さあ関西本線で帰ろっと!

エプソン ビジネスフォーラム(大阪)でセミナー講師

エプソン
堺筋本町にあるサンライズビルで「エプソン ビジネスフォーラム」を開催。併設セミナーで講師をしててきました。

しゃべった内容は前回の名古屋と同じ内容で、「ITは所有から利用する時代へ TCOを減らす5つの方策」。しゃべるだけではもったいないと思い、All Aboutの記事にもして、今日、アップしました。

こういうのを2度おいしいと言います。(笑)

記事にも書いていますが、2007年にiPhoneやアンドロイドが登場し、世の中がスマホを前提に動き出します。新しいイノベーションの登場などで10年先が見通せない不確定な時代。Googleでさえもビジネスモデルを変革し、模索し続けなければいけません。

実際、Google創業期に収益をあげるために考えたのは開発した検索エンジンを売ることでした。ところが売上は思ったほど伸びず、やがてオーバーチュアを参考にアドワーズ広告(検索するとキーワードに連動し表示する広告)をスタート。これが大きな収益をあげるようになります。

→ TCO削減でITがわかる人材を手放してはダメ

日本一短い名古屋の地下鉄・上飯田線

上飯田線
以前から名古屋市営地下鉄の路線図を見て、不思議だったのが上飯田線。

平安通駅から上飯田駅まで一駅しかありません。全長わずか800メートルで、日本一短い地下鉄路線。小牧に行く時に乗ってみました。名城線・平安通駅で降りて、上飯田線のホームへ行くと、ちょうど犬山行の電車が入ってきました。名鉄と直通運転のようです。

電車に乗り込みましたが、待てど暮らせど電車は動きません。名古屋の地下鉄でありながら、1時間に4本しか電車がなく15分おきになっています。ここらあたりは名鉄ですねえ。さすがに朝の通勤時間帯は1時間に8本出ています。ただ始発と終電は地下鉄線内だけなので、終電に乗ると800メートル先の上飯田駅までしかいかないようです。

以前は上飯田駅から市電に乗れば名古屋市内に行けましたが、市電が廃止され30年経って、ようやく地下鉄で結ばれました。

岸岡城

岸岡城
鈴鹿サーキットの玄関駅である近鉄・白子駅から1駅だけ名古屋よりにある駅が千代田駅。普通しか止まりません。駅に止まる手前の西側に見える丘が岸岡。現在は岸岡山緑地公園になっています。ここにあったのが岸岡城。

鈴鹿地域を地盤としていた神戸氏の城の一つです。神戸氏は関氏の一族でした。2つの丘からなっており、鈴鹿市の遺跡情報では北の岡を城跡としているので、まずそちらに行ってみましたが。丘の上には古墳があり、ここが城跡のようです。ついでにもう一つの丘に登ると、こっちの方が城らしく堀らしきものも残っていました。日本城郭大系ではこちらを岸岡城跡にしていますので、こちらが正解でしょう。丘の上には見晴らし台がありましたが、伊勢湾や街道筋を見下ろせるので、主郭にするなら絶対にこっちですね。伊勢上野城と同じようなロケーションです。

織田信長の伊勢侵攻で神戸氏は高岡城で、侵攻をくいとめましたが織田信長の三男(信孝)を迎えて和睦することになります。神戸信孝と名乗り、結局は織田家に乗っ取られてしまいます。