月別アーカイブ: 2015年7月

全国の渡辺さんの故郷

渡辺津

天神祭を見に行った時、天満橋近くの大川に渡辺津の碑が建っていました。おお!こんな碑が出来たんですね。ここが全国の渡辺さんや渡部さんの故郷です。

渡辺津とは大川にあった古代の港で、熊野古道もこの渡辺津が起点でした。時代がくだると渡辺津近くの台地の上に石山本願寺が築かれ、信長との10年戦争に突入します。

平安時代後期には源綱がこの地に住んで渡辺を名字とし、渡辺氏を起こします。渡辺綱の子孫は渡辺党と呼ばれる武士団となり、港を背景に水軍として日本全国に散らばります。これが全国に拡がる渡辺さんのルーツとなります。北九州にわたった一族は松浦党となります。

この渡辺津にあったのが坐摩(いかすり)神社。秀吉が大坂城を築城する時に坐摩神社および渡辺党に退去を命じたので坐摩神社は本町駅の南にある久太郎町に移転しました。この坐摩(いかすり)ですが、宮中に「座摩の巫」が祀られていて、都下(つげ)造氏の童女が祭祀をしたそうですので、ツゲですので古代朝鮮に関係していたようです。実際、渡辺津のあたりは旧新羅江とも呼ばれており、坐摩神社が移転した久太郎町は百済の当て字でしたので、渡辺党のほとんどはもともと渡来人のツゲ氏だったようです。

浅井三姉妹がいた伊勢上野城

伊勢上野城

研修の帰り、久しぶりに伊勢上野城へ寄ってきました。伊賀上野城ではなく伊勢上野城です。

信長による伊勢攻めが始まった時、北伊勢の長野氏が信長に対抗しました。この長野氏の一族で分部氏に養子に入っていたのが分部光嘉、当時わずか17歳。。一族が徹底抗戦しようというなか、黒田官兵衛のように時流がみえていたのか和睦を主張し、いろいろと画策し、長野家に信長の弟である信包を招きます。信包が分部光嘉に築かせたのが伊勢上野城です。

街道を見下ろす小高い丘の上にあり連格式の曲輪で構成されています。今は公園になっていますが土塁などが残っており、ちょっとはずれた竹藪に入ると堀切なども見事に残っています。公園なのでスーツ姿でも大丈夫ですが、スーツ姿での竹藪はあまりおすすめできません。(笑)

■浅井三姉妹がいた
浅井長政が小谷城で滅んだ後、織田信包がいた伊勢上野城にお市の方と茶々(淀君)、お江、お初の浅井三姉妹がやってきます。やがて今の津城が完成すると、そちらに引越。伊賀上野城は分部光嘉が城代となります。秀吉が亡くなった後、関ヶ原の合戦が起きますが、その前哨戦として津城が攻められます。小西行長、宇喜田秀家などの西軍3万が津城の2千におそいかかりますが、津城主富田氏と共に戦ったのが分部光嘉。多勢に無勢で和議になりますが、その功績から近江の大溝に移り、大溝藩2万石は明治維新まで続きました。伊賀上野城は廃城となります。

■硬骨漢だった細野藤敦
この分部光嘉のお兄さんが細野藤敦。信長の伊勢攻めで徹底抗戦を主張していた中心人物です。和議をすすめた分部光嘉は、このお兄さんを追放しますが、なかなかの人物だったようで、最後まで徹底抗戦。最後は根来寺で秀吉とも戦っています。

戦国武将の間でも細野藤敦の武名は有名だったようで松坂に入った蒲生氏郷が7000石で迎え入れ、やがて家康の時代となった時に、戦国乱世の世をよく真っ直ぐに生きられたと家康に声をかけられています。

商工会議所でセキュリティ研修会

商工会議所・職員向けにセキュリティ研修会を行ってきました。

先日、東京商工会議所で標的型メール攻撃による個人情報漏えい事件が発生したのが発端です。セキュリティ研修会の依頼があった商工会議所では、今は問題は出ていませんが、なにかあっては遅いので、職員に意識づけしたいという意向。なかなか、しっかりした商工会議所です。全職員対象ですので午前、午後で同じ内容で行い、職員の皆さんには交代で参加してもらいました。

セキュリティ研修会では
・こんなことをしていないか、できているかチェックしてみよう
・個人情報漏えいすると記者会見など、こんなに大変
・標的型メール攻撃とは
・対策しましょう 拡張子やクリアデスク
・万が一、情報漏えいがあった場合の対応策

といった内容で、行いました。

個人情報を共有フォルダーに入れていることもあり、必要がない個人情報は廃棄する。もつ必要があるならパスワード管理をしっかりするは必須です。

ゼロワンカレー

ゼロワンカレー

大阪府よろず支援拠点で窓口相談。ランチは谷四(谷町四丁目)界隈のカレー屋巡りへ。

本町通・松屋町筋の南東角のビル地下1階にある「ゼロワンカレー」。先日、行ったタイ料理屋さんと同じフロアーにあります。カウンター席8、2人席×2の12人ほどしか入らない小さなお店です。ゼロワンというと2進数なんで、コンピュータに関係あるのかなと店内を見ても、関係しそうなものはありませんでした。

メニューは南インド定食なるものでAは肉カレー(1,000円)、Bは魚カレー(1,000円)、Cはあいがけ(肉&魚カレー)で1,200円。とりあえずA定食にしました。

大きなトレーの皿にご飯が盛ってあり、周りにいろいろなオカズが配置されています。黒板にオカズの種類が書いてあるんですが、よう分かりません(笑)。別に椀が2つあり、一つには肉カレーが入っていました。もう1個の椀に入っていたのはカレーじゃなかったんですが、何だろうなあ。

常連さんは、ご飯に全部ぶちまけて混ぜて食べるそうなんですが、そんなチャレンジャーじゃでは、ありませんので、チビリチビリ食べましたが、何を食べているのかよう分かりませんでした。カレーはチキンカレーで、なかなかおいしかったですねえ。土日は混むそうですが、平日はそうでもないようです。

水走城跡

水走氏

こう暑いと、さすがに山城には登れませんので近くの平城巡りをしています。

東大阪に水走(「みずはい」もしくは「みずはや」)という地名があり、阪神高速の水走出入口があります。平安時代の終わりから、この辺りを開発し、地名を元にして名乗ったのが水走氏。最盛期には現在の東大阪・大東・八尾を管理していました。

現在の水走はすっかり内陸部になり、繊維団地などがありますが、大和川付替以前には寝屋川など多くの河川や深野池などの湖沼があり、港がありました。水走氏は水運などをおさえ発展していきます。水走の隣に吉田という所があり、大和川の支流である吉田川が流れていたところで、不動産関係者に聞くと、吉田や水走というような名前の土地は地盤が軟弱なので買わない方がよいと言っていました。

水走氏は古代から続く氏族で、中臣氏と同じ天児屋根命(枚岡神社の主神)を祖とする平岡連の末裔。枚岡神社近くの五条町に平城を構え、城には寝殿、惣門、中門、厩屋や倉などがありましたが、今は住宅街になってしまい、江戸時代に作られた墓塔が建っています。

もともとは枚岡神社の神職でしたが枚岡神社の社領などを守る武士団として発展していきます。河内源氏に従い、源義家や義経の御家人もつとめていました。南北朝時代は楠正成と共に足利軍と戦っています。四条畷の戦いでも楠正成に味方しましたが、高師直らの攻撃を受けて降伏。河内国守護となった畠山氏のもとで既得権益を縮小しながらも維持し、室町時代を生き抜きました。江戸時代も神職を続けて現在まで続いています。

大阪締め(天神祭)

天神祭

大阪よろず支援拠点で窓口相談。

大阪よろず支援拠点はマイドーム大阪7階にありますので、ちょっと歩くと中之島。中之島から少し行けば大阪天満宮です。窓口相談が終わってから天神祭を見に出かけてきました。天神祭の日に大阪にいることは珍しく久しぶりです。天満宮へ行くとちょうど宮入の最中で、大阪締め(おおさかじめ)が行われていました。

大阪締めとは大阪を中心に行われている手締めで、物事が無事に終わったことを祝い関係者が掛け声とともに打つ手拍子。

【大阪締め】
「打ちましょ」でチョンチョンと2回手を打ちます
「もひとつせ~」でチョンチョン、
最後に「祝うて三度」でチョチョンがチョンと打って締めます

大阪では天神祭以外でも証券取引所などでもこの大阪締めが行われます。大阪中小企業診断士会の交流会でも締めは必ず大阪締めです。なかなか風情があっていいですよ。

ウィークリーマンションツカサの思い出

<ウィークリーマンションツカサ

TSRの倒産情報を見ているとツカサマンスリーマンションが7月15日、東京地裁より破産開始を決定したと出ていました。もともとはウィークリーマンションツカサにつながる会社です。

ウィークリーマンションツカサの創業者は川又三智彦氏。ウィークリーマンションという業態を大ヒットさせ、1999年に事業を米投資会社リーマン・ブラザーズに売却しています。東京ではよくテレビにも登場し、関西では聞いたことなかったのですが、ウィークリーマンションのテレビコマーシャルもよく流れていたそうです。もう20年以上前になりますが知的生産の技術研究会・関西で「アイデア社長の情報仕事術」というタイトルでセミナーをしてもらいました。

■ウィークリーマンションのスタート
家業で不動産業を営んでおり、老朽化したアパートを立て替えしたかったのですが6軒くらいが出て行ってくれなくて苦肉の策で始めたのがウィークリーマンション。アメリカ留学していた時にアメリカでは週単位に借りられ家具などが備えられたアパートがあったことから、ウィークリーマンションという形態を考えだします。始めましたが、そううまくいきません。最初に来たのは普通のアパートに入れない人達で料金の滞納率が一気に上がってしまいます。

なかには備品を全部持ち出して夜逃げするのも出てきて散々な目にあいます。、金を払わなければ鍵が開かないカードキーシステムを1室当たり50万円をかけて導入し、なんとか軌道に乗せたという話を伺いました。当時は土地バブルがはじけた頃で、これから実態経済にめちゃくちゃ影響が出ますよという話も聞き、実際、その通りになりました。

■ツカサ本社でセミナー
川又氏にセミナーをしてもらっら翌年にWindows95が発売され、インターネットが一般に普及しはじめます。当時、パソコン通信のNifty-Serveから国立がんセンターにtelnet(遠隔ログイン)し、テキストベースでインターネットに接続するようなこともやっていました。

そしたら東京の知的生産の技術研究会でインターネットのセミナーをしろとかいう話になって、ウィークリーマンションツカサの本社(確か五反田?)を借りて、セミナーをしたのを覚えています。ようやくインターネットという言葉が新聞などに掲載されだした時代でしたので、講談社のサイトにアクセスしてドラエモンの絵を出すだけで皆が喜んだ牧歌的時代でした。

いなべ市へ

いなべ市商工会

いなべ市の企業からIT相談があるということで出かけてきました。

まずは大阪から近鉄四日市駅へ。迎えにきていた三重県産業支援センターの車に乗せてもらって、いなべ市へ。四日市から「いなべ市」まで車で1時間はかかります。

いなべ市は三重県の一番北にあり、隣は岐阜県。平成の大合併で員弁町、北勢町、大安町、藤原町が合併できた市です。

先日、捕まえたクマを逃がして隣の滋賀県に行ったのではと大騒ぎになったのが「いなべ市」。山深いところですが、関ヶ原や近江へ抜ける幹線道路も多いので、車が行き交っています。ちょうど東海環状自動車道の工事をしていて、トラックも多いです。

関ヶ原の合戦で島津が家康の本陣前を突っ切って退却する、いわゆる島津の退き口で島津義弘主従が通った道でもあります。

「いなべ市商工会」に寄って商工会の車に乗り換えて経営指導員と企業さんへ行ってきました。大阪から遠かった!

小さな企業のマイナンバー対策

マイナンバー

10月から、住民票の住所に個人番号(マイナンバー)が届きます。

2016年1月から税や社会保障の手続きにマイナンバーが必要になります。年末調整や退職では企業が手続きしますので、事前に社員や社員の扶養家族から個人番号(マイナンバー)を集めておかなければなりません。

ですが、どう対策したらよいか分からず、各地で開催されているマイナンバーセミナーは、どこも満席。マイナンバーに対応するのに従業員が多い企業は大変ですが、従業員が少ない企業ではそうでもありません。

あと駐車場や不動産を個人から借りている場合は大家さんのマイナンバーが必要となります。小さな企業では、どうマイナンバーに対応したらよいかみていきましょう。まずは、届いた個人番号カードをDMだと思って捨てないように注意喚起するところからスタートです。

All About「企業のIT活用」最新ガイド記事です。
→ 小さな企業のマイナンバー対策

楠正行が本陣をおいた往生院城

往生院六萬寺

近鉄・瓢箪山駅を南側に超えて少し行った先を東側に行くと往生院六萬寺というお寺があります。

家から自転車でいける近さですが、途中から生駒山を登るすごい坂になっていてお寺に着くころには息も絶え絶えに。高台ながら住宅街が拡がっていますが学校に通う子供とかは大変でしょうねえ。毎日、アスレチックです。

■創建は蘇我馬子の時代
往生院六萬寺から大阪が一望できます。歴史はめちゃくちゃ古く、崇峻天皇の時代に善信尼(日本最初の尼僧)が留学先の百済から帰って創建したのが桜井寺。蘇我馬子の時代です。この桜井寺が荒廃してしまったようで、天平時代に聖武天皇の勅願により跡地に六萬寺ができました。これが今の往生院六萬寺。奈良の大仏と正倉院が創られた時代です。

■楠正行の本陣跡
時代が下り、建武の親政が失敗した後、南北朝時代を迎えます。湊川へ向かう楠正成と長男の正行が分かれるシーンが世に名高い「桜井の別れ」。JR東海道線の島本駅のすぐ横が「桜井の別れ」の地と言われ碑が建っていますが、一説には六萬寺(桜井)が本当の「桜井の別れ」の場所と言われています。六萬寺は楠正行が幼少期に学んでいた所で、東高野街道が通っており、ずっと南に行けば楠の本拠地である河内長野。六萬寺は楠(河内)の勢力圏ですので、子供がわざわざ西国街道の桜井の駅まで行くのは無理でしょうから妥当な判断でしょうね。

楠正成が倒れた後、長男の楠正行が楠一族の頭領となり、南朝方として戦います。楠正行の最期の戦いが四条畷の戦いで、本陣がおかれたのが幼い時にいた六萬寺。楠正行は足利、高師直軍と戦いましたが敗退、自決しました。六萬寺もこの時、兵火で燃えています。

東高野街道をずっと北に上がった四条畷市が戦いの場所といわれていますが、六萬寺の近くに四条や縄手という地名が今も残り、本当の四条畷の戦いは四条縄手で行われていたのではとも言われています。いずれにしても近鉄・瓢箪山駅周辺は南北朝時代の戦場でした。