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元吉本新喜劇女優が身に付けた、転んだ時の素早い立ち直り方

木村美季

昨夜は知的生産の技術研究会・関西のセミナー。

オフィスわんさか代表の木村美季さんに「元吉本新喜劇女優が身に付けた、転んだ時の素早い立ち直り方」というタイトルでお話いただきました。

■時代劇女優~NSC
アイドルを目指し、高校2年生から20歳まで東映京都撮影所の時代劇女優。暴れん坊将軍や銭形平次の通行人や端役をやっていましたが、きれいな服を着る町娘などの役はなく汚れ役ばかり。そんななか太秦映画村で仕事もできると南京玉すだれを会得。巡り巡って、ウン十年後に地元の茨木神社で役立つことになります。

次に20歳で入ったのがNSC(吉本総合芸能学院)11期生。1年間、漫才やコントを学ぶ専門学校のようなところで同期は陣内智則・中川家・たむらけんじ・ケンドーコバヤシなど。初日のオリエンテーリングで終了間際に、講師が「ネタを作ってきているものはいるか」との問いに手を挙げたのが中川家の2人。初日から漫才を披露し、片鱗をうかがわせました。また、当時のたむらけんじは痩せてて、おっかけがいるようなイケメンだったそうです。

その後、吉本新喜劇の若手団員に。全員でこける時は膝ではなく肩からこけるという練習もあったそうです。MBSの深夜番組「テレビのツボ」2期目のチャンネル君としても活躍していましたが、25歳の時、「一生の仕事にする!」と心に誓った矢先「今日でクビ!」と宣言されてしまいます。

■居酒屋開業
あまりのショックに引きこもりになりますが、ご縁があり結婚。料理人の夫の夢は自分の店を持つことですが、貯金はなし。なんやかんやで夫婦で居酒屋を開業したため新婚でいきなりの貧困生活を経験します。ようやく店が軌道にのってきたところで夫が急逝。その後、串揚げわんさかに業態を変化させて女将をつとめます。現在は飲食店経営の経験をいかし飲食店開業などのコンサルや「ほめ達」認定講師として夫婦円満の極意を伝授しています。

人生は「まさか」の連続。まず気持ちがふっきれるところまで落ち込み、次に食べて、最後に行動することが大切。失敗もネタにしてしまおうと少しずらして考えることで気持ちの整理がつく効果もあります。

セミナー後に堺筋本町の居酒屋で交流会を開催。ところが途中でトイレに行かれた講師が帰ってこない。特技は方向音痴だそうで、しっかりと迷っておられました。

安濃・連部城

連部城

今徳城から少し行った穴倉川沿いに連部(つらべ)城があります。

連部城について三国地志には織田信包(信長の弟)が戸木城攻めのため家所帯刀に築かせたとあります。また勢陽五鈴遺響には秀吉が木造城を攻めるために築かせたと記録されています。

石田三成と同じ五奉行の一人が長束正家で水口岡山城主でした。関ケ原の合戦では三成側でしたので戦のあとに自決しています。この長束正家の陣代に家所帯刀がおり、関ケ原の合戦前の伏見城攻めに加わっています。

安濃には家所城があるので、家所帯刀はもともと安濃の出身かもしれません。いずれにしても久居にある戸木城、木造城は、かなり離れていますので戸木城攻めというのはどうでしょうかね。

連部城には土塁を伴った広い郭があり、よく整備されていて藪もありません。これはありがたいですね。また大きな堀切があります。

深井の土塔

土塔

中小企業診断士の研究会であるファイティング・コンサルタンツ研究会。根城にしている株式会社セレソヴィーがM&Aで堺東から深井に移転したことで、深井の新事務所で初会合。

深井駅を降りると駅前に”史跡土塔”の文字を発見。調べると10年ほど前に創建当時の姿に復元整備されたとニュースで見た土塔でした。”そうか深井にあったんだあ!”というわけでメンバー全員で急遽、土塔見学に。

土塔は東大寺建立などに関わった堺出身の奈良時代の僧、行基が建立したものです。約60,000枚もの瓦を使った十三重の塔で、奈良の高畑町にはよく似た頭塔があり、こちらも奈良時代のものです。

研究会が終わってからは深井駅近くの情熱ホルモンで飲み会。研究会と同じ時間だけ飲んでおりました。

クラウド・ファンディングの返礼品

https://readyfor.jp/projects/cam-bi

船場総研の安田会長からクラウド・ファンディングの返礼品が届きました。

クラウド・ファンディングのプロジェクト名は「カンボジアの通学困難な子ども達に自転車をプレゼントしたい!」です。貧困家庭の就学支援には奨学金が有効ですが、それ以前に必要なのが交通手段の確保。カンボジアの農村では学校が少なく、片道10キロ~15キロを片道3時間ほど歩いて通う子どもがたくさんいるそうです。去年、安田さんがカンボジアへ行って必要性に気づいたそうです。往復6時間かかりますから、朝早く出かけ夜遅く帰ってきます。夜は真っ暗で危険も多く、勉強時間の確保も大変。

そこで自転車の購入資金&修理キット(舗装されていないので壊れたら自分で直す)をクラウド・ファンディング「Readyfor」を通じて集めることになり無事にプロジェクトは成立。先日、カンボジアで贈呈式が行われ、その時の写真やお礼の手紙が送られてきました。

自転車には支援者の名前の入ったプレートを取り付けたそうなので、「合同会社エムアイティエス」のプレートをつけた自転車が今頃、カンボジアの農村を走っています。

→ カンボジアの通学困難な子ども達に自転車をプレゼントしたい!

大阪府よろず支援拠点・事例発表フォーラム

事例発表フォーラム
大阪府よろず支援拠点・事例発表フォーラム
 
大阪府よろず支援拠点には18名のコーディネータがいますが、机は10しかありません。週1回~3回と皆さんバラバラの出勤ですので全員が揃うことはなく、ふだんは10の机で充足しています。
 
本日は年1回の事例発表フォーラムということで、コーディネータの出席率がよく、必然的に起きるのが机の取り合い(笑)。遅く出てくると空きスペースがなく、会議机で業務をすることになります。

安濃・今徳城

今徳城

安濃城塞群の一つが今徳城。

今徳城は安濃町今徳にあります。南光寺境内の裏側に今徳城跡の碑がありますが、実際の城は南光寺東側の小さな道を100mほど入ったマンション横の藪の中にあります。藪に入ると二重になった土塁や堀切が残っています。

今徳城は北畠氏の家臣・奥平平太夫貞兼が築城したと伝わっています。子孫の奥平常陸加介は剛の者としられ、織田軍の伊勢侵攻で織田信包の攻撃にも耐えて落城しなかったと伝わっていますが、規模の小さな平城ですので、本当かどうかは分かりません。

北畠家は織田家と和睦し、織田信雄が養子として入りますが、奥平常陸加介は織田信雄に属することになります。この後、北畠を殲滅するために織田信雄が三瀬御所を攻める時には病気と行って加わらず今徳に戻ったとあります。関ケ原の合戦の前哨戦として美濃で竹鼻城の戦いが行われましたがこの美濃竹鼻の陣で戦死したようです。南光寺には供養塔が建っています。

熊野でホームページの利活用セミナー

鬼ケ城

昨夜は三重県の南で、ちょっと行ったら和歌山県という位置にある熊野市で「ホームページの利活用」に関するセミナーを行いました。

セミナーは夜だったので、そのまま熊野に宿泊。地元の人においしい店に連れて行っていただき、「シオ」と呼ばれるカンパチになる前の刺身や岩清水豚のスペアリブなどをいただきました。おいしかった!

能勢・森上館

森上館

能勢の栗栖の近くに岐尼(きね)神社があります。

式内社ですので歴史は古いですねえ。社伝によると782年(延暦元年)創始で、祭神には多田源氏発祥の源満仲も入っています。

神社の裏山にあるのが森上城と今西城で、岐尼神社のすぐ裏手には森上館があったようです。館の周りを土塁が巡っていたようで、この土塁の一部が竹藪の中に残っています。

戦国時代、平時は麓の館にいて、有事の際は詰めの城(山城)で戦うのがオーソドックスな形でした。朝倉義景の一乗谷もそうですし、甲斐の武田信玄も躑躅ヶ崎館が平時で詰め城が要害山城でした。

能勢には野間館と野間城もあり、なかなか館と詰め城セットを見る機会がないので、能勢はいいですねえ。

能勢・今西城

今西城

森上城の西に平坦地が続いており、ずっと行くと今西城があります。深い堀切が3方向にありますが、西側にだけ土塁があるので森上城とは一城別郭だったようです。つまり森上城の一部だったようで、森上城はかなり大きな城だったようです。

吉村城、森上城、今西城で能勢街道をおさえていたんですね。

能勢・森上城

森上城

吉村城から能勢街道を挟んだ反対側の山頂にあるのが森上城。

さすがにGoogleマップに山道まではのっていないので、適当にあたりをつけて登れそうなところを探して登り始めます。結局、山城までの道を発見できず、ひたすら坂を登って山城跡に到着しました。

月峯寺の往古水帳に森上殿という言葉が出てくるので、森上という地名を本貫とする武士がおり、地元の土豪だったようです。能勢なので多田院御家人だったのでしょう。

森上城の東側は尾根を3重の堀切で遮断し、西側にも堀切がありました。土塁に囲まれた広い郭が3つほどあり、それ以外にも削平地があるので、けっこうな人数を収容することができたようです。今は木が生えて眺望は望めませんが、当時は能勢街道をおさえる山城でした。