番条環濠(大和)

番条環濠(大和)

戦国時代は自力救済の時代。自分の身は自分で守らないといけませんので、発達したのが環濠集落で大坂の平野郷や堺など、たくさんあります。環濠集落とは防衛力を高めるたえに村の周りに水堀をめぐらせたものです。奈良の大和郡山の南東にあるのが番条環濠で、今も環濠が残っています。

北、中、南の垣内(区画)に分かれ、それぞれの垣内の出入口は2つしかなく防衛力を高めていました。また水堀も屈曲させ横矢がかかるようになっています。村人の家はすべて環濠に面していて、全村民が均等に防衛していました。

応仁の乱の動乱に大和の国も巻き込まれましたが番条にいた国人の番条長慶は南大和の越智氏ともに畠山義就を支持していました。ところが畠山義就と対立した畠山政長に味方した筒井氏が越智氏を打ち破ってしまったため、番条長慶は館を自ら焼いて番条から脱出してしまったことが当時の日記に残っています。

見捨てられた番条の人々は筒井方に攻められて大勢が死んでしまいました。なぜか番条氏はまた舞い戻ったようです。軍事集落でしたので松永久秀と筒井順慶の争いでは番条環濠は陣所として取り合いになっていました。

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