サーバーレスアーキテクチャによるWebアプリ開発について

ITC三重

ITC三重 定例会
2007年10月18日 三重県合同ビル会議室

■「サーバーレスアーキテクチャによるWebアプリ開発について」 森ITC
位置情報共有アプリをアマゾンのAWSを使って構築中で来月ぐらいにサービスイン予定。最近のサーバレスアーキテクチャについてデモをまじえてお話いただきました。昔は一から作る必要がありましたがWebサービスを組み合わせていろいろなシステムを安価で素早く作成できる時代になっています。

AWS S
クラウド上にhtmlファイルなどを置くことでウェブサーバーを使わなくてもブラウザーでホームページサービスを提供することが可能

AWS Cognito
認証システムを提供してくれるIDaas(IはIdentity)。ただしユーザが明示しなければログを残す形にならない。2段階認証など簡単に設定でき、最近、増えているFacebookやGoogleでログインなどを提供してもらえる

AWS Lambda
Faas(FはFunction:計算機能)JavaやC#でプログラミングができる

■無線LAN(Wi-fi)の暗号化システム「WPA2」における脆弱性について

ほんまかいな?蘇我馬子の墓

蘇我馬子の墓

聖徳太子のお墓がある叡福寺から少し行った住宅街に石塔が建っています。これが地元では蘇我馬子墓と伝わっています。最近のGoogleマップはすごいですね。きちんと表示されます。

定説では石舞台古墳が蘇我馬子の墓ではないかと言われています。この石舞台古墳のすぐ近くにある都塚古墳が近年、階段ピラミッドの墓だったと分かり、これが蘇我稲目の墓ではと言われています。蘇我稲目は馬子の父親で仏教伝来の時に大連の物部尾輿と争った人物です。仏教公伝、日本史で覚えましたねえ。蘇我氏の墓は本来、飛鳥にありますので、なんで太子町に蘇我馬子の墓が伝わっているのでしょうか。

太子町にある磯長谷は、大和川の支流である石川流域にあります。蘇我氏の祖は石川宿禰(いしかわのすくね)と言われ、この一帯が蘇我氏の最初の本拠地との一つと考えられています。大化の改新では蘇我倉山田石川麻呂が登場し、蘇我氏はもとの石川を名乗るようになります。そんな土地だからこそ、聖徳太子と二人三脚で歩んだ蘇我馬子の墓のいわれができたのでしょう。

推古天皇陵じゃない推古天皇陵

推古天皇陵

用明天皇陵、聖徳太子のお墓ときたので次は推古天皇陵。同じ太子町にあります。推古天皇といえば日本で初めての女帝で第33代の天皇。用明天皇の妹にあたり、甥の聖徳太子が摂政を努めました。

推古天皇は聖徳太子や蘇我馬子と共に仏法興隆にも努め、斑鳩に法隆寺が建立されます。また難波京から飛鳥まで大道(幅19m)を整備し、冠位十二階、十七条憲法が制定され、小野妹子が隋に派遣されます。激動する海外情勢に対応するため日本という国家が大いに整備された時代でした。

推古天皇は75歳で小墾田宮で亡くなりますが、若くして亡くなった息子の竹田王子と一緒に葬ってほしいということから合葬されました。これが橿原市にある植山古墳のようですが、改葬され、現在の推古天皇陵になりました。

どうも二つの石室があったので宮内庁が推古陵と比定したようですが、「?」のようです。地元ではすぐ近くにある二子塚古墳こそが本当の合葬陵であるとする言い伝えがあります。本当のところは誰の陵か分かりりませんが、高台にあり近辺が一望できる眺めがよいところです。

ファイル転送・共有サービスとは?安全性と注意点

重たいファイルをメールに添付して送る場合、受取先の企業が容量制限していると受取拒否となりエラーで戻ってきます。そもそも1MBを超えるようなメールを送るのはマナー違反。

そんな時に便利なのがファイル共有サービス。手軽に大容量ファイルを送れます。企業で活用する場合の注意点をみていきましょう。以前に書いたガイド記事をリライトしました。

→ ファイル転送・共有サービスとは?安全性と注意点

聖徳太子のお墓

聖徳太子

太子町に叡福寺というお寺があり、ここに聖徳太子のお墓があります。直径50メートル、高さ10メートルの円墳で、太子と母君の穴穂部間人皇后、妃の膳郎女の3人の棺が納められています。前後し相次いで亡くなっていますので、伝染病で亡くなったという説があります。

お墓には立派な山門や線香立てがあり、3層の建物もあって、他の天皇陵などとはだいぶ趣が違っています。

江戸時代まで、参拝のために石室内に入れたので、空海などが石室内の図を残しています。先日、NHK・歴史秘話ヒストリアで「聖徳太子の棺(ひつぎ) 伝説のその先へ」という番組をしており、釈迦三尊像の光背に彫られた196文字の銘文が聖徳太子と同時代のものである可能性を伝えていました。銘文によると像の高さを聖徳太子の背の高さにあわせたとあり、175cmぐらいあったようです。古代ではかなりの長身ですね。

枚岡駅の踏切越えがハイライト 枚岡祭り

枚岡祭り

河内一之宮である枚岡神社の秋祭り。毎年、10月14日、15日に行われます。今年はたまたま土日となりましたが、天気はいまいちでした。

東高野街道にある鳥居に集合し、ひたすら生駒山の裾野を上がり枚岡神社境内を目指します。ハイライトは近鉄・枚岡駅の踏切越え。職員が電車の通過タイミングの間隙をぬって23もの太鼓台を通します。枚岡駅周辺は祭り見物で人があふれており、異様な雰囲気に電車の運転士がどうしても徐行運転するため、ダイヤが狂いがち。なんとか連絡を取り合って、太鼓台を通せる時間を作って通しています。毎年のこととはいえ、ご苦労様です。

踏切を超えると一番傾斜がきつい坂が待っています。この坂を登りきると、いよいよ境内で宮入がはじまります。

AI(人工知能)に奪われる仕事、一番危険なのは…?

「今後、10~20年の間に人が行う仕事の半分が機械に奪われる」という内容の発表が話題を集めました。日本でも、同様の分析手法を使った調査が行われました。もっとも「AIに置き換わる可能性が高い」とされた職業は何だったのでしょうか?

けっこう多かったのがサムライ業(士業)。置き換えられる可能性が司法書士 78.0%、公認会計士 85.9%、弁理士 92.1%に続き、税理士 92.5%となっています。

AllAbout「企業のIT活用」最新ガイド記事です。

→ AI(人工知能)に奪われる仕事、一番危険なのは…?

比定地として間違いがない用明天皇陵

用明天皇陵

先日、山城へ行くついでに太子町へ寄ってきました。太子町は日本の王家の谷とも呼ばれ蘇我に縁がある古墳が集まっているところです。

写真は用明天皇陵。用明天皇は第31代天皇で聖徳太子のお父さんとして有名です。用明天皇自身のお父さんは仏教伝来で有名な欽明天皇。日本史で習いましたね。お母さんは蘇我稲目の娘・堅塩媛です。都は天香具山近くの磐余池辺雙槻宮でした。

用明天皇となり在位2年足らずで崩御してしまい、後継者争いから物部守屋の排仏派と蘇我馬子・聖徳太子の崇仏派が争うことになります。最終決戦は現在の八尾市で行われ、大聖勝軍寺に物部守屋の墓があります。単純に仏教受入だけでなく半島情勢を元にした外交や国家運営に対する考え方の違いも影響していました。

天皇陵といえば前方後円墳が基本でしたが、初めて方墳になったのが用明天皇陵です。また宮内庁が天皇陵を定めていますが、考古学の知識がない江戸時代の比定を元にしているため、とんでもないことになっています。そのなかでも、比定通り用明天皇陵で間違いないだろうという稀有な例になっています。

ドミナント戦略を採用している立ち飲み屋

ファイティングコンサルタンツ

昨日はファイティング・コンサルタンツ研究会を堺で開催。設立当初はコンサルティングフォームを作ろうと燃える集団で、代表がボクシングをしていたこともありファイティングと命名されました。大阪駅前ビルで研究会をやっていた頃は、たくさんのメンバーが集まり、議論白熱、熱気むんむんでした。

月日が経つというのは残酷で、途中からグダグダに(笑)。それでも、なんやかんやで15年も続いています。

写真は与太話しかしていないのに、さも研究会をやっているかのような捏造写真です。捏造を指示しているのはファイティング・コンサルタンツ代表で、こうやってフェークニュースが作られていくんですね。

1時間ほど与太話をした後、15時過ぎには商店街のオシャレな居酒屋へ。やっぱり何の研究もしていない(笑)。

■ドミナント戦略
居酒屋だけでは飲み足りないので、終わってから立ち飲み屋へ。商店街の一角に立ち飲み屋が集中しており、誰も入っていない店があったので入ると、これが立ち飲み屋「りえ」。とても安く、シメサバを注文したら、おばちゃんが隣の立ち飲み屋へ。隣からシメサバを運んできます。

隣の店も立ち飲み屋「りえ」で、なんとドミナント戦略(地域を絞って集中的に出店していく経営戦略でコンビニが有名)を採用しています。ようやく最後に中小企業診断士らしい締めとなりました。

紀氏神社

紀氏神社

平群を根城にしていたのが紀氏と呼ばれる豪族。

朝鮮半島で軍事・外交に活躍した氏族です。氏神がこの平群坐紀氏神社(へぐりにますきのうじじんじゃ)で、式内社になっています。祖神の平群木菟宿禰(へぐりのずくのすくね)を祀っていました。紀氏は平群氏と同族で、平群氏の嫡流は武烈天皇の時代に滅ぼされてしまいます。日本書紀に平群鮪、武烈天皇との影媛(物部麁鹿火の娘)を巡る恋争いが出てきますが、武烈天皇に命じられた大伴金村によって平群氏は滅ぼされてしまいます。単純な恋争いではなく、政治的にいろいろとあったようです。

滅ぼした大伴金村も任那割譲時に百済から賄賂を受け取ったことで失脚しています。昔、日本史で習いましたが、こっちもそんな単純な話ではなく政治的にいろいろとあったようです。